賊軍のラストサムライTOP山田方谷マニアックスTOP
藩主勝静江戸へ遁走美袋談判大石隼雄涙の直訴新見藩丸川義三の死玉島事件
熊田恰、柚木亭にて切腹西爽亭・写真とアクセス倉敷・玉島の歴史

美袋談判

慶応4年1月14日、君主不在の備中松山藩を備前岡山藩32万石を筆頭に庭瀬藩、岡田藩、浅尾藩、新見藩、足守藩など松山藩追討の新政府軍がぐるりと松山藩を取り囲んだ。鳥羽伏見の戦いにおいて藩主板倉勝静は徳川慶喜とともに遁走、備中松山藩は朝敵となった。

2本の錦の御旗を掲げる岡山藩は、備前一の切れ者といわれる岡山藩のブレインであり、高名な茶人でもある人物、家老伊木若狭を征討総督にすえ松山討伐に当たった。


新政府軍から松山藩討伐の命が下ったことを方谷が知ったのは命が下ったその翌日だった。方谷の築いてきた情報ネットワークはこの窮地にも生きていた。

「どうする・・・恭順か・・戦か・・どちらにしても、この命はあるまい・・・」

方谷は門下生であり、強力な後ろ盾であり、親友の矢吹久次郎と妻みどりにあてて遺書を書いた。

「矢吹殿、いよいよこのときが参りました・・・・色々ありましたが、ただ一つお願いがあります。娘・小雪のことを、くれぐれもお願い申し上げます・・」

そして妻みどりには「私はやっと死ぬことができる、後のことは心配しなくても大丈夫だ、先にあの世にまいる・・・」

君主不在の藩最高会議でも今後をめぐり意見は真二つに割れた。


「戦じゃ!」「戦うべきだ、新見や庭瀬も西軍にだまされているのだ、岡山藩め、薩長と組んで遂に攻め込んできおった!」松山藩藩士達の多くは近隣諸藩が偽の勅諭を奉じて攻め込んできたと判断、戦うことを望んだ。

そもそも備中松山藩と岡山藩は伝統的な犬猿の仲の藩、松山藩は譜代藩でありながら貧乏藩、16世紀の備中兵乱でも血で血を洗う争いを繰り広げた。さらに岡山藩は外様藩ではあるが32万石という大藩で微妙な力関係を保っていた、しかし方谷の藩政改革で急激に力をつけてきた松山藩は岡山藩にとっては疎ましくてしょうがない存在、両藩の仮想敵国は常に岡山藩であり備中松山藩であった。

【当時の各藩の勢力図、オレンジが松山藩、黄色が岡山藩】

1月15日、方谷は殺気立つ藩士達を制し、美袋の本陣へ謝罪使を派遣した。備前岡山藩は参謀河原源太夫が、一方の松山藩は正使に家老大石隼雄、副使に三島中洲と目付の横屋謹之助の3名がこれに対峙した。

岡山藩、参謀河原源太夫は立烏帽子に陣羽織、一方の松山藩正使の三人は麻の袴に草履姿、
平伏した大石隼雄は「我が藩は現在君主不在でございます。すみやかに備中松山城を開城し、謹慎・恭順を行います。」と完全恭順を申し出た。

これに対し、河原源太夫は謝罪書の提出を要求、草案は既に新政府軍によって作成されおりこの文章を松山藩が全面的に認めることにより松山藩の恭順を認めるという提案を持ち出してきた。


松山藩家老、金子外記の屋敷で方谷ら重臣が集まり謝罪書の草案をめぐり密議が開かれた。そして、その草案を眺める方谷の眼に衝撃が走った。

「大逆無道」 信じられない4文字が方谷の眼中に飛び込んできた。



「大逆無道・・・断じて大逆無道などではない!藩侯は朝廷に刃を向けたことなど一度もない。尊皇の志は誰よりも厚いお方である。恭順はする、しかしこの老いぼれの首に代えてもこの文字は除かせねばならん!」

日頃冷静な方谷が、周りの家臣たちがたじろぐほどの怒りを見せた。大逆無道とは「子が親を殺し、家臣が君主を殺す」という意味、確かに方谷にとってこの4文字には許し難いものがあった。しかし、方谷の尋常でない怒りにはもう一つの意味があった。

藩民を守り、藩士を守り、藩を守る、この四面楚歌の状態を無血で納めるには己の首がもっとも効果的であろう、この首くれてやる、これでやっと静かになる。
方谷は自分の死に場所をこの4文字に求めた。

 
【美袋本陣:田邊家あと】
現在田邊家はなく、跡地にはJA吉備美袋支店が立つ。


美袋本陣跡のすぐ横には八幡神社が今でも当時の姿を残している。

藩主勝静江戸へ遁走美袋談判大石隼雄涙の直訴新見藩丸川義三の死玉島事件
熊田恰、柚木亭にて切腹西爽亭・写真とアクセス倉敷・玉島の歴史




Click Here! Click Here!   

 Copyright(C) 2001 備中高梁観光案内所