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藩主勝静江戸へ遁走美袋談判大石隼雄涙の直訴新見藩丸川義三の死玉島事件
熊田恰、柚木亭にて切腹西爽亭・写真とアクセス倉敷・玉島の歴史

藩主勝静、江戸へ遁走

慶応4年(1868年)1月3日、第15代将軍・徳川慶喜のいる大坂城を薩長の4千5百の兵が取り囲んだ。幕府軍の軍勢は一万五千人、数の上では圧倒的に幕府軍有利という状態である、しかし時代の流れは既に幕府の側にはなかった。すでに慶喜には幕府軍すべてを統率する力は残っておらず、決起立つ幕府軍を残したまま板倉勝静、松平容保、松平定敬らを数名を引き連れて、夜陰の内に江戸へと遁走してしまった。
この事件は300百年続いた徳川政権の終焉を意味すると同時に備中松山藩が「賊軍」となるのに十分なものだった。

敵前逃亡に当たり、自らの行動が外部に漏れるのを恐れた慶喜は護衛すらほとんどつけず、着の身着のままの姿で逃走を図ったこのため松山藩を始め会津、桑名の藩兵も同行することが許されず、勝静の護衛に当たっていた熊田恰以下150名の松山藩士らもひとまず国へ帰るよう命じられた。


熊田恰(くまたあたか)、名は短芳。恰は通称、備中松山城下本丁(現高梁市川端町)に生まれた。有終館で学び、新影流の師範であった父武兵衛のもとで剣術を修めた。恰は松山藩きっての剣の達人で、「不平不満があっても決して怒ってはならない。怒りは武士の恥である」というのが口癖だった、門人は数百人に上り、いかなる場合でも平常心を失わない人格者であったと伝わる。

ある時、熊田部隊に「方谷の住居を警護せよ」という命が下った事がある。
このころ方谷は藩政改革のまっただ中、緊縮政策と屯田政策により一部の藩士にはすこぶる評判が悪く、暗殺の噂も市中を横行していた。方谷警護の人選に当たる恰に対し、ある部下がこう言った。

「君主のために馬前に戦死するのは本望だが、同じ藩士を守って暴徒に倒されたとあっては不面目この上ない」

恰はこれに対しこう言った。

「同じ藩士と思うのは誤りである。藩侯第一の宝物を守護せよと言う君主の厳命であり、たとえ死に至るともそれは御馬前の討ち死にと何ら異なることはない。」

部下はこの一言に服従し、それ以後不平を言うことはなかったという。

1862年11月、備中松山藩は長州征伐に出陣、恰は一番手隊長を命じられ玉島港から広島に向かった。恰に率いる勝静親衛隊は当時幕府軍最強といわれ、16門の新鋭大砲を装備したその姿は多くの友軍を驚かせた。

「見る人驚く板倉の大筒、小筒打ち普べ天晴れかいな」という民謡が今も伝わる、この時歌われた「五万石でも松山様は御陣羽織が虎」という軍歌もまた、今でも高梁で秋祭りなどで歌い続けられている。


【熊田恰】
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