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備中松山平成塵坪紀行

1859年9月8日〜9月15日
原 文
  八日 曇
夜、山田先生来る
   九日 雨 先生逗留
朝四ツ過、地震、夜明方、又
震、改革ハ古物ハ老て死、
若年之者ハ成長、十五年
位ニて始て立物、急ニすると
朋輩(トウ)之憂抔アリ、急ニハ不出来
事ナリ、乍去、始より心ヲ用ユルハ
無申迄事ト、右ハ君公、楽翁之
咄と云て山田ニ被咄候由、君公ハ
楽翁公之曽孫ナリ、桑名
より来ル人、先生又云、十ヶ条
アレバ段々易より始、追々可致
事と、総如此様子面白事
ナリ、此夜林ニて之咄
8日 曇り
夜になり、山田先生が水車に現れた。

9日 雨 先生はまだ水車におられる。
朝、10時頃、地震があった。夜になり、また地震。

水車にて山田先生に話を伺う、今日の話としては、「改革とは、古い者が死に、新しい改革者が育ち、15年くらいたって初めて成果がわかってくる物だ。急いで執行していると、おもしろくない者や抵抗勢力が出てくる、なかなか急にできる物ではない。」と、はじめから焦ってする物ではない。

とのこと。この話は松平定信公が曾孫(注1)である板倉勝静公にした話という、山田先生は言っておられた。備中松山藩の藩主である板倉勝静公は松平定信公の曾孫に当たるお方で、桑名松平家から養子にこられた方である。

また、この日、林富太郎から聞いた先生のお話として「10個やらなくてはならないことがあれば、その中のもっともやり易いことからはじめ、だんだんと進めればよい、すべての物事はこのように進める物である。」とのこと、なかなか興味深い。

   十日 朝雨 曇
朝、先生帰
   十一日 曇 時々雨
昼時分、度々地震、
昨十日、昼頃より腹瀉、夜
弥甚敷、今日ニ到り猶未
不止、松茸之慕(ホウ)食より
来る事、江戸ニて豕ヲ
貪り、中られてこりけるか、
江戸を出てよりハ、更ニ
心ヲ用しか、如何なる訳ニて、
如此事仕たるやと、跡ニて
考けるニ、不思右様之事ヲ
スるハ、竟油断、心之緩み
より之儀、他日之戒之ため記置
10日 朝のうち雨 のち曇り
朝、先生が水車から長瀬の自宅に帰られた。

11日 曇り時々雨
お昼時、ときとき地震があった。
昨日、10日の昼頃より腹の調子が悪い、夜になるとどうにも我慢できないほど痛くなった。今日11日になっても腹の痛みはまだ治まっていない。松茸の食い過ぎが(注2)原因であろうか。
江戸にいた折、豚の食い過ぎにより腹をこわした、あのとき暴食を懲りたはずであったが、またやってしまった。
江戸を出てからは、さらにこのようなことがないよう用心していたつもりであったが・・、どういう訳かまたやってしまった、今になって考えてみるに、全く油断してしまっていた、心がたるんでいた。今後の戒めのために、ここに記述しておく。


   十二日 曇
人間之腹ハ弐十四時ニて
一回とか、奇妙なるかな、
一昨昼夜之腹痛、今日
ニ至り弥本快、是幸也、
必後日之戒、可懼る也、
此日花屋三匁、机・暗燈(アンドウ)之
礼ニ遣ス、夜又地震

   十三日 晴 風強
夜、天ニ無雲、風も
止、月可愛
   十四日 晴

今朝、郷状ヲ封す、
七月廿八日(此書ハ飛脚)と今便(山田)と、
松山来り弐度出
12日 曇り
人間の腹という物は24時間で一回りする物らしい。
不思議なことにあれだけ痛かった腹が今日は全く何ともなく至って快調。全くよかった。今後こういったことのない様自らを戒めよう。
この日、世話になった「花屋」へ3匁、机と行燈の礼を遣わした。
夜になり、また地震があった。

13日 晴れ 強風
この日の夜は空に全く雲が無く月が美しい。

14日 晴れ

今朝、長岡の父に当てた手紙を出した。
7月28日と今回で松山に着いてから2度手紙を出した事になるかな。


   十五日 晴
夕刻、乍暇乞進行、
山田先生来居り、始て
郷状を見、水変を聞、
夜不寝、夜更迄返書を
認、別封ニして頼、先生(セイ)、
妻君よりと云て、小手
被下、宵之中色々咄を聞、
世話すき、経済咄すき之筋と云言葉
あり、面白敷処ある様思わる、
他日戒之ため記置、乍嘘(タワムレ)
其中ニ心ヲ用居と、妙言
ある様思ワル、和文ヲ被送下

15日晴れ
夕方、先生がいよいよ江戸に出張されるというので、その間自分もさらに西国・九州方面に遊学に出てみようかと思い、藩の責任者である進氏に申し出るため進宅へ。その後、水車へ戻る、山田先生も来ておられた。そこで郷土から来た手紙を渡されたがそれを見て驚いた。長岡は大洪水に襲われていると言うではないか。夜になっても寝ることができず、返信を書いた。
寝れずにいると先生がいらして「これは私の妻からだ」といわれ、切手を下された。その夜は寝ることもできず、先生にいろいろな話を聞いた。先生は本当に世話好きで、かつ経済の話が好きである。

(注1)曾孫
継之助は塵壺の中で板倉公は松平定信の曾孫といっているがこれは間違いで、正確には孫に当たる。

(注2)松茸
高梁はつい10年くらい前までは松茸の一大産地であった。
最盛期には町中にいるだけでどこからともなく松茸のにおいが漂ってくるとまで言われ、あの寅さんも映画「口笛を吹く虎次郎」の最後のシーンでおみやげとして松茸をもらっている。ちなみに管理人のハレハも小さいときはよく食べた。
松茸は赤松の生えたよく整備された山に生えるキノコで、松茸の生息は方谷の山の整備計画の副産物といえる。当時の松山藩の山々は大変整備されていて、松茸が生えるのに好都合だった。
残念ながら近年は山が荒れたのと、松食い虫の大発生と気候の変化で松茸はほかと同様滅多に見ない物となってしまった。

この回の9日にも方谷が語っているが、方谷は継之助に会ってからこのとき、そして分かれるまで継之助を戒め続ける発言をしている。方谷は継之助の中に「功名心」に走る心を見たのだろうか、最後、継之助が松山を去る祭には、継之助に売った「王陽明全集」の末尾にもと戒めを書いている。方谷にとって、継之助のもっとも気になる部分がここであり、それこそが継之助の弱点と見ていた。

そんな二人だが、継之助が水車で方谷と過ごしたこの期間、お互いが人間性を確認しあうのにとても重要な期間となった。今まで誰に対しても心を開くことの無かった継之助だが、方谷に対して、当初「元来百姓にて・・」と書いていた頃と比べ、文章に明らかに尊敬の念が見えてくる。
また、塵壺には出てこないが、継之助が兄に送った手紙の中には、方谷の留守中、長瀬の本宅の留守番を頼まれ、「山の中で読書三昧もまたよし」と書いている。方谷が若い男に妻や娘のいる本宅の留守番を頼むというのは、この時点でよほど信頼していたといえる。
しかし、残念ながらこの留守番は実現せず、継之助は九州遊学に出かける。




 

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