備中松山平成塵壺紀行トップページ河井継之助プチマニアTOP山田方谷マニアックストップページ
備中松山平成塵坪紀行

1859年8月19日〜9月7日
原 文
十九日 曇 昼後雨 

夜ニ到り、山田先生来ル
   廿日 晴 先生留
   廿一日 晴 同
   廿二日 曇 夕方よる夜中
   雨      同
   廿三日 終日雨 同 此日先生江戸之命アル
19日 曇り 昼過ぎより雨

夜、暗くなってから山田先生が来られた。

20日 晴れ 先生が泊まった

21日 晴れ 昨日と同じ

22日 曇り 夕方より雨 昨日と同じ

23日 終日雨 昨日と同じ
この日、松山藩主板倉公より、山田先生に江戸出張の召命があった。(注1)
   廿四日 晴
先生帰、此間様々之談
ヲ聞、昼後先生帰後、
進・林・三島来ル、夜迄談、弐朱余り出、酒
   廿五日 晴
朝、林来談
   廿六日 晴

廿七日 晴 曇勝
   廿八日 晴
   廿九日 晴 夕方雷 少雨
夜、進来ル
   九月朔日 晴
□  二日 朝晴 昼時分少雨
山田行 四
   三日 晴 山田
   四日 晴 山田 三夜・・・・・・・・・九
   五日 晴

水車帰
24日 晴れ
朝、山田先生が水車へやってこられた。昼過ぎに帰られるまでの間、いろいろな話を聞いた。先生が帰られた後、進、林、三島の三名が水車にやってこられた。酒2升ばかりを出した。

25日 晴れ
あさ、林富太郎氏が来て話をした。
26日 晴れ

27日 晴れのち曇り
28日 晴れ
29日 晴れ 夕方雷を伴って少し雨
夜、進昌一郎氏が来た。

9月1日 晴れ

2日 朝晴れ 昼、時々雨
3日 晴れ 長瀬、山田邸に宿泊
4日 晴れ 山田邸
5日 晴れ
水車へ帰る



   六日 晴

   七日 曇 昼大雨 晴
此日、城ノ東ニ当、二里
計リ在、野山ト云所
行、右ハ士ヲ一昨年より
遣と云事也、十間在所
稽古場所・学校在、七間之所
在、弐間ツヽ之所二ケ所、
合弐十壱間かと思る、
面白仕方、手之届クニハ
感心之事也、沢々之広ク
多きニハ案外也、野山三ヶ村
之一と云、更代之供送る、帰
ノ咄ヲ聞、夕方水車帰、
右之所行ニハ余程ノ山坂アリ、

坂之上より城を一目ニ見る、城、
臥牛之名アリ
6日 晴れ

7日 曇り 昼に大雨 のち晴れ
この日は城の東2里くらいのところにある「野山」というところに視察に行った。ここ野山では一年ほど前から松山藩の下級武士を屯田兵(注2)として駐留させているということである。
広さ約10間程度(約18m:一間=1.8m)程度の場所に武道の稽古場所や学校があった。
また、七間(12.6m)のところ、二間(3.6m)のところが二カ所、あわせて二一間程度の広さの場所であると思われる。
なかなか興味深い場所である。この場所に多くある谷川の広さは意外であった。
この「野山」という場所は三ヶ村の一つであるという。
帰りに聞いた話では最初いやがっていた下級武士達も、田を作り畑を耕し秋になり収穫を得ると、大いに家計の足しとなり、ついには妻子を始め、一家丸ごとをその地に招き生活したという。

夕方にやっとのこと水車に到着した。野山にゆく道中にはかなりの山坂がある。そうそう、帰り道の坂の上から松山城が見えた。城のある山の名を臥牛山(がぎゅうざん)という




(注1)江戸出張の召命
1858年9月の安政の大獄において、松山藩主・板倉勝静は罪人に対し温情ある措置を主張した、これが井伊大老の逆鱗に触れ、勝静は寺社奉行を罷免されてしまった、しかし、事態はそれだけにとどまらず、勝静は江戸での政治生命はおろか身の危険までも感ずる立場となってしまった。
この状態を打破するべく、勝静は誰よりも信頼の置ける方谷を江戸に召命した。
江戸での方谷のアドバイスは「この場は静かに、動きなさるな」という物であったという、実際にこの判断は的中、2年後の桜田門外の変によって井伊大老は暗殺され、幕府の勢力は一気に反井伊直弼側に傾いた、同時に井伊大老に意見した勝静の株は急上昇し、この後一気に老中へと駆け上ってゆく。

(注2)【屯田兵】
屯田兵とは、明治初期、北海道の開拓・警備と失業士族の救済の目的で政府により奨励され、家族的移住を行なった農兵。北海道開拓に重要な役割を果たした。継之助がきたこの時代には、まだ屯田兵という言葉は存在しないが、方谷の作ったこの制度は、まさに屯田兵そのものであった。

「野山について」
9月7日、継之助は野山という場所を視察に訪れる、この野山という地名は現在は残っていない、場所は岡山高速道賀陽インターの出口付近で、現在は吉備中央町宮地という地名となっている、跡地には「野山学問所址」の碑と解説の看板が立っている。この野山周辺は山の山頂づたいに高梁市街地を降りずに直接「備中松山城」に抜けることのできる唯一のルートで、方谷は早いうちからこの「野山」を天守防衛の戦略上の重要拠点としていた。

実際このルートを通ると、現在でも総社市の日羽(ひわ)口から山には入り、吉備中央町経由で臥牛山の裏口である大松山に抜けることができる。松山藩の仮想敵国である備前岡山藩から松山城を守るためにはここだけは絶対に押さえておかなければならない拠点だった。

しかし、こんな僻地に飛ばされた方にとっては「とんでもない」話だった、当然方谷に対する批判の声も高まる、方谷自身が松山城下から遙かに離れた長瀬に家を構えたのも、そんな声をかわす目的があったといわれる。(長瀬に行ったのはそれだけではないのですが・・・)

その後、田畑からの収穫によって下級武士達の生活が城下に暮らしていたときよりもよくなるというおまけまで方谷が見こしていたのかはわからないが、最終的にこの屯田兵制作は城の防備・収穫高の増収・下級武士の経済支援、と一粒で3度おいしい政策となった。


写真中央部が備中松山城、写真でもわかるように、山の中を中央から右下に伸びている白いラインが道となる。ここからさらに吉備中央町を経由して総社市日羽に抜けることができる。
方谷はこのルートを松山城防衛の最重要地点の一つとして防備を固めていた。
ちなみに、北の防備拠点は現方谷邸跡のJR方谷駅としていた。この場所は川沿いのつきだした立地にあり、対岸には新見往来がある。もし、北から攻めてきた場合にはこの方谷駅に鉄砲隊を据えて、北から来た隊を撃退しようと考えていた。


野山からの帰り、峠の山頂で継之助は松山城をみた。この場所はおそらく「大久保峠」といわれる場所で、現在でもこの峠から松山城を望むことができる、最近開通した高速岡山道の高梁の玄関口となる賀陽インターから高梁に向かうと、それまでの山の中の風景から突然高梁を一望する大眺望が出現する、ここが大久保峠で現在は展望台も設置されている。
大久保峠からの眺望はここをクリック





 

備中松山平成塵壺紀行トップページ河井継之助プチマニアTOP山田方谷マニアックストップページ





  

 Copyright(C) 2001 備中高梁観光案内所