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備中松山平成塵坪紀行

1859年7月21日
原 文
  廿一日 晴 花屋
朝、土屋・稲葉ハ宿を立て
暇ヲ告、約束故、山田行し処
今日願を出さん、直ニも不

済事故、夫迄ハ宿ニ逗留
之様被云、昼後亦行談ス、
右ハ、出懸リ宅と本宅と、
半分ニ居ル之事ニ依也、
頼母子之談出ツ、士ハ士、百姓
々々、町人々、夫々中間之外
堅停止、改格之一也と被云、
追改格を聞可記、猶
背法者、家老当リニ、一人、
下輩ニもアリ、夫々罰アル由、







夕刻より進昌一郎被招、
山田と行、色々談を聞」
ナタ之酒六十万石也と」
桑名之カジ景次郎、五両ヅヽ
之印三ツ拵て、始て切手
を大坂之者承知すると、
大坂之情態様々咄有之」
大坂屋敷ハ松山ニても引取」

秋田迄ハ大坂ニて喜、近くも
伊勢ハ嫌ふと、江戸順ナレハ也、
東ニて廻米之始、桑名ナラント、
仙台之事ハ、江戸出張りて
致ス仕事也、東国も段々
工夫して備ル由、彦根抔も
大坂廻す、大坂ニてハ
歳月之計と見込ハ、其
図りニ応、永久と見込ハ、
其図りニ応シ、全躰永久
ヲ喜之風俗ナリと、
桑名之印も、永久ヲ示
す為也、長も短も、
損ヲせぬ様ニ、如才なき物
なれ共、往々見込迦れて、
つぶれるも多しと、

当藩大坂之取扱、山田
之仕事少しハ聞ケれとも
委敷尋し上可記、
土着之談も追可記、
或諸侯、土着之儀ニ付、先
始ハ勤番、追々喜ふ様ニナリテ、
家内迄移ると、委敷尋
ねン、当町ニ教諭所とて
学問所アリ、町人是へ出、会読、
輪講(コウ)迄アル、第一山田ハ西方
之百姓、林富太郎ハ玉島之
商人、三島貞一郎ハ他領之
庄屋之子、林・三島之両人ハ
近頃之取立ナリ、進之所ニ、
百姓之子十二歳ニて、八大家
ヲ読居者アリ、教イク之法、
感心之物ナリ、数々咄も有レ共
追可記、夜四ツ頃帰宿
財と文武と富国強兵兼る之
勢、兎角財ノミニカヽルト、文武スタレルト、山田之咄、
倹約も能けれ共、文武
不振してハ残念ナリと、
上杉之振ふか不振か之事ニ
付、右之談有之、望、中々
高し、
 進昌一郎も庄屋より、
 酒屋養子ニ行し者
 
7月21日 晴れ 花屋泊
朝、同宿していた土屋、稲葉が宿をたった。私も今日、山田先生のところへ伺うと約束していたので先生の元へゆく。
先生に弟子入りのことを尋ねると「今日にも藩に、弟子入りの許可の願いを出す、結果はすぐにはわからないのでわかるまでは宿にとどまっておくように」とのこと。

昼過ぎにまた先生のところにゆく、山田先生は城下では「水車」という出掛かりの宅に住み、本宅はここから数十キロ離れた長瀬というところにある、本宅と水車とで半分半分に暮らしておられる。昼の話では頼母子講(たのもしこう=注1)の話をした。

備中松山藩では「士は士、百姓は百姓、商人は商人、それら身分の物がほかの身分になることを堅く禁じる今までの身分制度」を廃止している。これも改革の一端であるという。
正確なことは、また詳しく先生に尋ねた上で記入することにする。

また、藩の法律を破った者が家老に一人、家来にも一人いるらしい。彼らにはそれぞれ厳罰が下ったらしい。

夕方より進昌一郎氏の家に招かれる。山田先生と一緒にゆき、いろいろな話を聞いた。話の一つに「灘の酒は60万石の価値がある」という話が出た。
また、桑名の鍛冶景次郎という男の話で、今大阪の関所を通ろうとすると5匁の印3つのついた通行証が必要だったという。
大阪の状態も日々悪化している。
備中松山藩も今まであった大阪屋敷は廃止したらしい。

大阪の米問屋も秋田の米は喜ぶが、近場でも伊勢の米は嫌うらしい。
秋田から大阪に向かうには江戸も通るが、江戸で廻米(注2)をしたのは桑名が初めてという。
東国も廻米においては徐々に工夫を凝らしている。
彦根もまた、大阪に米を回す。
大阪の米問屋は各藩の取引の長さによって相場を変えている。全体的には恒久的に取引する契約を望む傾向がある。
桑名藩はその契約をしている。

まぁ、各問屋も損をしないようあれこれと試行錯誤をしているようであるが、おうおうに見込みがはずれてつぶれる業者も多いと聞く。
備中松山藩の米も大阪に廻米している。
山田先生の仕事については少しは聞きかじったが、今度詳しく聞いた上で記入することとする。

山田先生の実施した改革に一つで「屯田兵制」があるが、当初へんぴな山奥に飛ばされた下級武士は単身赴任をして、非常に立腹していたらしいが、新田新畑の開墾により収穫による食料と金がはいると態度は一変し、嬉々と喜んで家族一同もその地に移り住んだという。


この松山藩には「教諭所」という学校がある。驚くべきことにこの学校には町人が通っており、読書や輪講(注3)をしている。
そもそも山田先生自身がもとは中井町西方というところの百姓であり、兄弟子の林富太郎(注4)は松山藩の飛び地・倉敷市玉島の商人の息子、三島貞一郎(注5)は他藩の庄屋の子である。

この林・三島の二人は最近藩に取り立てられて藩の要職についている。
そうそう、進氏のところに百姓の子が一人世話になっているが、なんと12歳にして中国の古典である「八大家文」を詠んでいる。

松山藩の教育方針は全く感心する以外何者でもない。
ほか、話はたくさんあるが、追って記すことにする。
この日は10時頃、帰宿した

山田先生の話では、財政改革と教育と軍事、これらを兼ねそろえなければ真の改革はできないとのこと、改革というと、とかく財政改革ばかりに目がいってしまい、文武が廃れてしまう、それでは真の改革はできない、と。

藩政改革で有名な上杉鷹山について訪ねてみると、「財政改革についてはあるていど成果を残すことができたが、文武が廃れてしまい米沢藩は「富国強兵」の目的を果たしてはいない、これでは中途半端な改革といわざるを得ず、残念なことだ」とのこと。
さすがは山田先生、なかなかに望みが高い。

あと、進昌一郎氏も庄屋より酒屋に養子に行った商人で元々の武士ではない。



(注1)頼母子講
金銭の融通を目的とする相互扶助組織。組合員が一定の期日に一定額の掛け金をし、くじや入札によって所定の金額の融通を受け、それが組合員全員にいき渡るまで行うもの。鎌倉時代に信仰集団としての講から発生したもの。頼母子。無尽講。(大辞林)

(注2)廻米
江戸時代、幕府・諸藩が年貢米を主に江戸・大坂に廻漕(かいそう)したこと。また、その米。(大辞林)

(注3)輪講
一つの書物を数人が分担をきめ、かわるがわる講義すること。
「源氏物語の―」

(注4)林富太郎(1813〜1871)
玉島出身、名は保、字は定卿(ていけい)、方谷の高弟であり、牛麓舎門人の中でも年長組に属する。進よりも一つ年上で継之助来藩当時は「武育局」の総裁であった。
明治元年、松山城無血開城ののち、蝦夷地に逃亡したいた藩主「板倉勝静」に東京にて自主を説得した4人の一人、富太郎はその後「藩主を裏切った」という自責の念に駆られ、極度のノイローゼ状態に陥り誰にともなく許しを請いつつ狂死したという。
明治4年3月16日没 享年59歳

(注5)三島貞一郎=三島中洲
(1830-1919) 漢学者。備中の人。名は毅(つよし)。漢学塾二松学舎を創立。東京高師・東大教授、東宮侍講・宮中顧問官を歴任。著「詩書輯説」「古今人文集」など。
詳しくは松山藩の藩士達を参照




 

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