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備中松山平成塵坪紀行

1859年7月18日
原 文
  十八日 晴 花屋
昼前中咄し、先一端、
城下引取り、廿日ニハ出故、
願始其節談すると
被云、昼後松山帰る、
山田より之書を持て、
進昌一郎行、文武宿

花屋ニ宿を取る、予
より先ニ、会津藩土屋
鉄之助宿ス、無程松城
藩と云、ホラガイ・大鼓・采
配ヲ持、一人来る、此者ハ
兼長岡へ来る者なり、
昌一郎も宿来り居、
土屋と三人談ス
18日 晴れ 花屋に宿泊
昼前まで山田邸で話をしていたが、「一旦松山城下へ戻り待つように、二十日には方谷氏も公務で松山城下まで出るので、弟子入りの件についてはそのときに話す」と、云われた。
昼食をいただいた後、松山城下まで戻ることとした。

城下の勝手がよくわからなかったのだが、山田氏より紹介状をいただき、氏の門下である進昌一郎(注1)を訪ねた。
進氏によると松山では文武宿という書生のみが利用する宿があり、遊学にきた書生はあらかたそこに泊まるらしい、よって進氏の紹介により、文武宿「花屋」(注2)に宿を取ることとなった。

花屋に入ると同じ北国の会津藩士・土屋鉄之助(注3)がすでにチェックインしており、さらにしばらくすると松代藩の稲葉隼人という男が入ってきた。

この稲葉という男はなんでもホラガイの修行をして全国を巡っているという変わった男で、昔長岡にもきたことがあるらしい。

しばらく3人で話をしていたが、そののち進氏も花屋に現れ土屋と進氏と3人で話が盛り上がった。




(注1)進昌一郎−進鴻渓(しんこうけい)
備中松山藩士。漢学者。名は漸。通称は昌一,郎。鴻渓は号。阿賀郡唐松村(現新見市唐松)に生まれる。一八歳の時、山田方谷に師事した。弘化四年(一八四七)に藩校有終館学頭となった。その後、撫育銀方総裁兼農兵頭など歴任した。慶応四年(一八六八)戊辰戦争の後には藩存続のため尽力した。明治維新後は世事砂ら離れ、教育に専心し多くの人物を育てた。
今では三島中洲が方谷の一番弟子といわれるが、この当時年齢的にも実績の上でも一番弟子はこの進鴻渓であった。

文武宿「花屋」(注2)
花屋は現在の高梁市の紺屋川沿いにあった、紺屋川とは松山城の外堀の役目も果たした小さな川で、現在は紺屋川美観地区として観光名所となっている。花屋の建物は既になく、その場所には今は郵便局が建つ(花屋の主人は飛脚業も営んでいたためその名残が建物に出ているといえる。)、よこにわずかに木の案内板がたっている。


現在花屋は「油屋」と名前を変え、元花屋後から歩いて1分ほどの場所にある。油屋は高梁でもとても人気のある旅館で明治には与謝野鉄幹・晶子夫妻、最近では寅さんも泊まった旅館である。


土屋鉄之助(注3)
戊辰戦争では新練隊長として白河口で奮戦した



  

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