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備中松山平成塵坪紀行

1859年7月17日
原 文
   □十七日 晴 山田 一
松山を立て、ヤハリ川ニ添て、
三里計り奥入り、漸く山田
之宅へ昼頃到る、弥
陜キ所なれとも、
如前様子ハ不替、余程之能
家、昨年之引移り、未普
請も十分ナラヌト、面白所也、
道々新開之所も諸々見ユ、
行と、無程逢れて、
色々咄もあり、己之胸中
を開て頼し処、能聞受て、
与得御答可仕と被謂候、
既ニ受る之口上ナリ、随分
親切ニ被云、夜山田ニ宿ス、
昼夜大躰出居ラル、

佐久間ニ、温良恭謙譲ノ
一字、何れあると論、
封建之世、人ニ使われる事
不出来ハ、ツマラヌ物と之


一村ニ壱丁ツ・之新開ヲ
申附ると云事、

公之水戸一条ニ付、
山田之御問ニ被答、
書之後ニ書之文
ヲ内々見る、
外、数々咄もあれとも、
追緩々可記と、一々不留

 
17日 晴れ 山田邸に宿泊

松山の市街地をでてやはり川に沿って
18キロばかり奥に入り、山田先生のお宅に
昼頃到着する。

山田邸のある場所は家一軒建つのがやっとくらいの
とても狭い場所にある、昨年移り住んできたばかりらしく
まだ完成していない部分もある家である。(注1)
山田邸にゆく道中、所々で新田の開拓をしているのをみる。

早速訪ねてみたところ、程なく山田方谷氏と面会
することが出来た。早速入門希望の旨を伝えたところ
「お話は承りました、ご返事に関しては、また後ほど」
とのこと。この感じだとすでに入門出来そうな様子である。
方谷氏は随分と親切に扱っていただき、その夜は方谷氏のお宅に宿泊することとなった。

方谷氏は大変忙しい身で、昼夜を問わず藩に出ておられる。

その夜、方谷氏に同門で私の師でもあった佐久間象山について聞いてみると、
「佐久間には孔子が大事なものとして解く、温(おだやかさ)、良(すなおさ)、恭(うやうやしさ)、謙(つつましさ)譲(けんそん)の5文字すべてがかけている」とのこと。

また、別の話として「この封建社会においては、いかに優れた才能があるとしても上司に使われることができなければその才能を発揮することができない、つまらないものである。」とのこと。

一つの村に付き、一丁の新田の開発のノルマを課したこと。
などを聞いた。
そして中でも驚いたのが「安政の大獄」の際、備中松山藩の藩主である板倉勝静公がその対応を方谷氏に問うた極秘文書の手紙を見せていただいた。

そのほか、様々な話をしたが、詳しくはまた追って記すこととしよう。






 この日、継之助はついに念願の山田方谷との対面を果たす。
このころ方谷の名は全国にとどろいており、全国から入門を求める書生が殺到していた、しかし方谷は継之助をのぞきほとんどの書生の入門を断っている。一番大きな理由は、方谷自身がまだ藩政改革のまっただ中であり書生にかまっている暇がなかったことがおおきい。

この日、ラッキーにも方谷が自宅におり、継之助が「塩谷宕陰」からの紹介状を持っていたことで門前払いされずにすんだ、その上で方谷が思ってもいなかった継之助の「己之胸中」である「先生の講義を机の上で受ける気は毛頭ありません。先生のそばに置いていただき、先生の日常をに接し、生き様を学ばしていただきたいのです。」というセリフに不意をつかれた方谷が思わず継之助に興味を持ってしまったことが幸いした。

しかし、継之助はその方谷の態度をみて「既ニ受る之口上ナリ」と書いているが、実際に門下となる許可が下りたのはその日から十数日後となる。その間方谷は自身や門下生を使い継之助を鋭く観察していた。

その夜、おそらく酒を飲みながら二人で佐久間象山の悪口をいうなどすでに息のあったところも見せているが、この時点で方谷本人も継之助にただ者ならぬものを感じていたのだろう。

また、直感的に継之助の本性を読み取ったのか、初日にして「 封建之世、人ニ使われる事不出来ハ、ツマラヌ物
」とその性格に釘を刺しているのもおもしろい。

驚くべきは、通常門外不出であるはずの「安政の大獄時の勝静の手紙」を初対面の継之助に見せたことだろう。
このときの方谷の意図は何だったのか、考えられることとして、安政の大獄の後、寺社奉行を罷免になった藩主勝静公の清廉潔白をこの将来の大物に伝えようとしたのか、(この時点ではまだ桜田門外の変は起こっていない。)それとも、高梁人によくあるサービス精神だったのか、・・惜しいことにこの手紙は現在は残っていない。

(注1)昨年之引移
長瀬の自宅には去年移り住んできたとあるが、実際に方谷たちがこの家に越してきたのはこの年の4月である、そのためまだ家ができていなかったのかというと、実は長瀬邸はもっと以前から建設は進んでいた、なのになぜまだ普請の途中だったのか。

方谷は厳しい改革の中、藩士の批判を押さえるため、自分の俸禄は下級武士並みに抑え、その上すべての収入を第三者によって管理させていた、江戸時代において今の言葉で言う「ディスクロージャー」を実践していた。

しかし、そんな財政の天才「方谷」も、私生活においては誰もが陥りやすいミスをおかした。方谷は自分の家を普請する際、もうちょっとあれもこれもとどんどん予定外の建設を進めてしまったたため途中で建設資金が底をついてしまった。方谷でもこんなミスをしてしまうのかと思うと本人は大変だろうがちょっとほほえましい。


長瀬の方谷邸後には現在JR伯備線の方谷駅が建つ。
この駅は日本初の人名駅としても有名ですが、その裏話には涙ぐましい努力があった。
当初当時の国鉄は駅名は地名でなければいけないということで、人名駅の案を却下した。
このため中井の人たちは、「このあたりは中井町の中心地、西方のしもの谷で方谷と呼んでいるんだ!」と主張しで押し切ってしまったという。


方谷駅のホームのおくには「方谷邸後」の碑が建つ


 

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