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河合継之助、来藩

「日本最後の武士」「幕末の人材を考えてみて,河井継之助は木戸孝允より3倍ほど上の人物です」「もし,西軍側の人物 であったら,今頃お札になっていたであろう人物」

こう言って 司馬遼太郎が絶賛した人物「河合継之助」が越後長岡藩から遠路はるばる備中松山藩までやってきたのは安政6年7月(1859年)のことであった。

当時の藩政でうまくいっているのは備中松山藩のみであり、その藩を取り仕切る「山田方谷」なる人物、藩中の人間から神のごとく崇拝されている、方々から聞こえるそんなうわさを聞くたび、「どうしても方谷から教えを請いたい」、継之助の方谷に対する尊敬の念はドンドンと高まり、ついには両親から50両という大金の旅費をせがみ備中松山までやってきたのだった。

前日、松山藩の手前の遊郭で一泊した継之助は娼婦に聞いた
「おぬし、備中松山の方谷という人物を知っているか?」

遊女はこう答えたという
「もし、私が備中松山藩で生まれていたならばこんな仕事はしていないでしょう・・」

そして翌日、松山領に入る手前の茶屋で一服している継之助はまたしてもまわりの旅人のうわさ話に驚かされる。
「・・・その藩札は河原に積み上げられて半日かけて全部燃やされたんだ、全く方谷さんは大したもんだ。」
他藩の領地であり、藩札の焼却から8年も経過していたが、それら方谷の逸話はまるで昨日のことのように旅人たちにも語り継がれていた。

継之助の方谷に対する思いはますます高まってゆく。
「一刻も早く方谷に会いたい」期待に胸を膨らまし先を急ぐ継之助の足がぱたりととまった。

先ほどもでと景色ががらりと変わり、いかなる山もきれいに整備されただんだん畑が山頂に向かってのびており、諸処に孟宗竹が茂っている、見事に整備された景色が継之助の目前に広がった。

「ここが備中松山藩か・・・・」



継之助は備中松山までの旅の日記を「塵壺」と題して残した、この日記は旅の土産話をごく身近な人に語るためにかかれたといわれている物で、継之助が後世に残した唯一の文献でもある。
継之助が松山藩を訪れたエピソードに関してはこの塵壺をベースにご紹介する。



  

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