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松山藩財政、待ったなし方谷、大阪へ方谷改革の痛みとは経済のV字回復
松山藩、貨幣刷新方谷の軍政改革山田方谷と抵抗勢力

【方谷改革の痛みとは】

改革には痛みが伴う。この「痛み」最近はよくテレビで耳にする言葉だが、方谷の藩政改革にあっても当然痛みはあった。

方谷は藩政改革の第一歩としてまず行ったのは節約令の発布だった。その内容は悪名高い「天保の改革」にも劣らない熾烈過酷なものであった。

一,年月を期して藩士の穀録を減ずる。

一,衣服は上下共に綿織物を用い、絹布の使用を禁ずる。取次格以上は常服を裃(かみしも)とし中小姓以上は尻割羽織、十分以上は丸羽織、十分以下は羽織とする。地は麻、袴は夏は麻、厳冬は小倉織とする。

一,簪(かんざし)は士分の婦人は銀かんざし一本、以下は真鍮かんざし、櫛などは木竹に限る。

一,足袋は九月節句から翌年四月までに限る。

一,饗宴贈答はやむを得ざる他は禁ずる。飲食は一汁一菜に限る。吉事酒を用いるときも一肴一吸に限る。領分中これに準ずる。

一,結髪は男女とも人手を借らず。

一,家政は主婦がこれに当たり、やむを得ざる他は下婢を使用せず。

一,奉行代官等、いささかの貰い品も役席へ持ち出す。

一,巡卿の役人へは、酒一滴も出すに及ばず。

まずはトップが事を示そうと、酒好きの藩主勝静は晩酌を三合でやめた。
方谷は倹約令の発令と共に減禄を申し出た。もともと方谷の俸禄は藩士達の反発も考えて大蔵大臣でありながら中級武士並に抑えられていたが、さらなる減禄である。

その上、方谷は自分の家の会計出納すべてを第三者である塩田仁平衛に委任し、政治家としての家計をガラス張りにするという、いまでいうディスクロージャーを実行した。

方谷のこの行いは藩民藩士の信頼を得るのに非常に有効な手だてだった、方谷改革中、改革をあからさまに反対する勢力が現れなかった事がそれを物語る。

この方谷の改革は、上も下もの節約をうたっているが、その信念として徹底的な弱者保護が盛り込まれている。その当時の百姓や下級武士は限界を超えた年貢の取り立てや減俸に継ぐ減俸で、もやは倹約令どころではない生活を強いられていた方谷の弱者に対する痛みとは「これ以上の搾取はしない、何とかあと少し現状で堪え忍んで欲しい」というものだった。

そんな百姓達にとって、最後の2条などを見てもこの倹約令はむしろ喜ばしいものたったようだ。そして、百姓たちが最も喜んだのが藩内40カ所に設置された米の貯蔵庫だった。

この貯蔵庫、大阪の蔵屋敷を廃止したことにより建設されたものだが、いざ飢饉が訪れた場合、すぐさま飢えた民百姓にこめを緊急配布するための「義米庫」となった。方谷は「命の保証」という最低限にして最大の保証を民のために実施した。

以後、備中松山藩では、百姓一揆はピタリと消え、どんな飢饉の時にもひとりの餓死者も出してはいない。







  

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