▲山田方谷マニアックストップページ

熊田恰くまたあたか

(1825〜1868)
熊田恰(くまたあたか)、名は短芳。恰は通称、備中松山城下本丁(現高梁市川端町)に生まれた。有終館で学び、新影流の師範であった父武兵衛のもとで剣術を修めた。恰は松山藩きっての剣の達人で、「不平不満があっても決して怒ってはならない。怒りは武士の恥である」というのが口癖だった、門人は数百人に上り、いかなる場合でも平常心を失わない人格者であったと伝わる。

ある時、熊田部隊に「方谷の住居を警護せよ」という命が下った事がある。
このころ方谷は藩政改革のまっただ中、緊縮政策と屯田政策により一部の藩士にはすこぶる評判が悪く、暗殺の噂も市中を横行していた。方谷警護の人選に当たる恰に対し、ある部下がこう言った。

「君主のために馬前に戦死するのは本望だが、同じ藩士を守って暴徒に倒されたとあっては不面目この上ない」

恰はこれに対しこう言った。

「同じ藩士と思うのは誤りである。藩侯第一の宝物を守護せよと言う君主の厳命であり、たとえ死に至るともそれは御馬前の討ち死にと何ら異なることはない。」

部下はこの一言に服従し、それ以後不平を言うことはなかったという。

1862年11月、備中松山藩は長州征伐に出陣、恰は一番手隊長を命じられ玉島港から広島に向かった。恰に率いる勝静親衛隊は当時幕府軍最強といわれ、16門の新鋭大砲を装備したその姿は多くの友軍を驚かせた。

「見る人驚く板倉の大筒、小筒打ち普べ天晴れかいな」という民謡が今も伝わる、この時歌われた「五万石でも松山様は御陣羽織が虎」という軍歌もまた、今でも高梁で秋祭りなどで歌い続けられている。

戦いの後、勝静から帰藩を命じられ、玉島(現倉敷市玉島)まで帰ったが、ここで岡山藩の征討をうけ、配下一五〇余名の助命を請い、自刃した。









 Copyright(C) 2001 備中高梁観光案内所