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【川田甕江】(かわたおうこう)

1830〜1896

 玉島新町の問屋の次男に生まれた川田甕江は、若くからその学才が認められ、22歳のとき上京、28歳から10年間、江戸松山藩邸で学問を教える。

後には文学博士の称号を受け、東京大学教授、貴族院議員、学士員会員などにも選ばれる。死後、宮中顧問官にもその名を連ね、漢文学者としての名前と、多くの著書を残す。



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川田 甕江(かわた おうこう、天保元年(1830年) - 明治29年(1896年)2月2日)は、幕末・明治期の漢学者。本名は剛(ごう)であるが、これは師である山田方谷の命名であり、それ以前は竹次郎と名乗っていた。号は毅卿(きけい)。

備中国浅口郡に生まれる。父は同国玉島の回船問屋であったが幼いうちに両親に先立たれて没落し辛い少年時代を過ごす。玉島で儒学者鎌田玄渓に学んだが、玄渓は甕江の才能に気付いて自ら「師に足らず」と述べて江戸への遊学を勧めた。江戸では佐藤一斎らの下で学びながら、学資のために蔵書を売り、家庭教師をするなどの苦学の末、近江大溝藩の藩儒として100石が与えられる事となった。その時備中松山藩の執政であった陽明学者山田方谷が藩儒として50石で召したいという希望を甕江に伝えてきたのである。甕江は備中松山が故郷に近い事に加えて、わずか数年で松山藩の財政再建を実現させた山田方谷の学識と手腕をこの目で確かめられる好機であると考えて大溝藩の半分の備中松山藩への仕官を決めたのである。安政4年(1857年)28歳の出来事であった(ちなみに甕江の仕官前に彼の評判を聞いた方谷は自分の力量を認めて弟子を江戸に送り出した鎌田玄渓もまた優れた人物であると高く評価して同じく藩の儒臣に招いていた)。

方谷に学問を学んだ甕江は、すぐに頭角を著して門人としては新参ながら江戸藩邸の教授を任されて三島中洲とともに方谷門人の筆頭として扱われるようになった。だが、戊辰戦争では藩主板倉勝静が老中の一人として幕府軍に捕まったために備中松山藩は「朝敵」とされてしまう。甕江は藩兵を密かに備中に引き揚げさせる工作に行っていたが、岡山藩による備中松山占領の方が早く、岡山藩の要求によって藩兵の隊長であった重臣熊田怡が責任を取って切腹させる代わりに他の藩士の罪を免除させるという事になり、甕江が切腹の目付役を務める事になった。その後、方谷の命に従って江戸で出家させる予定であった板倉勝弼の藩主擁立、蝦夷地まで逃れた勝静の捜索などを行い、高齢の方谷に代わって三島中洲とともに藩の存続に尽力した。

藩の存続が決まると、方谷が引退したこともあり甕江は藩を退いて東京(江戸)に昇った。江戸で塾を開いた甕江は薩摩藩の重野安繹と双璧をなすと言われるようになった(この二人に甕江の盟友・三島中洲を加えて「明治の三大文宗」と称された)。この頃、江戸漢学界の第一人者であった安井息軒を訪問した井上毅は安井に「自分に会う暇があるなら川田に会え」と言ったと言われている。

山田方谷に対して尊敬の念を抱いていた木戸孝允は、甕江に方谷の出仕を要請するように依頼した。方谷の引退の意思は固く、木戸の期待には応えられなかったものの、太政官に出仕して大学小博士として重野安繹とともに国史編纂の責任者になれるように推挙したのである。やがて国史編纂構想は太政官内における修史館設置(明治10年(1877年)1月)へと発展する。

だが、甕江と重野の対立はその最初から生じていた。新しい日本の国史を作ろうと意気込む重野に対して甕江は国史編纂よりも史料の収集に力を注ぐべきだと考えていた。更に完璧なものを追求して妥協を許さない重野と気さくで大らか(悪く言えば大雑把)な甕江では性格が全く合わなかったのである。
そのような時に生じたのが『太平記』の扱いを巡る問題であった。重野は『太平記』を創作であって史実ではないと考え、同書にしか記述の無い児島高徳や「桜井の別れ」(楠木正成が死の直前に息子正行との訣別を行う場面)は国史に載せるべきではないと唱えたのに対して、甕江は『太平記』に対する史料批判を行わずに初めから創作と決め付けるべきではないと反対して、両者は激しく論戦を行い、学者達を2分するかの勢いとなった。その結果、明治14年(1881年)、甕江は修史館を去って宮内省に移る事になった。
この論争について今日の史学史では論争中に甕江が発したとされる「事実の詮索過ぎて忠君孝子地下に涙し…」という発言が一人歩きして、甕江が歴史学を「名教道徳」に従属させて国家に不都合な歴史の存在を否定しようとしたという評価がされている。だが、甕江自身の経歴から見れば甕江もまた重野同様に実証主義を取り、それゆえに独善的に陥りがちであった重野の手法を批判してより慎重な史料批判を求めたのが論争の実態である。むしろ、その後の国学者や神道関係者、国粋主義者によって甕江の発言を都合よく利用して重野や久米邦武の追い落としを図った事や、激しい論争のために多くの人間を巻き込んだ派閥論争へと変質してしまい、互いに妥協の出来ないところまで行き着いてしまった事が、日本の史学史にとって大きな不幸であったといえよう。

その後、明治17年(1884年)に東京帝国大学教授となると、華族女学院校長・帝室博物館理事・貴族院議員(勅選)を歴任して、明治26年(1893年)には東宮(後の大正天皇)の侍講に任じられたのである。その一方で、旧主であった板倉勝静を度々訪れてはその相談相手となり、死の間際には「死後も自分の側近でいて欲しい」と勝静から懇願されて、勝静の墓の隣に甕江の墓が設置される事となった。

かつて甕江を取り立てた木戸孝允の死後、甕江は勅命によって木戸の墓碑銘を起草するように命じられた。ところが、甕江の性分と仕事の多忙さからかその筆は進まずに明治29年(1896年)に甕江が死去したときには未だ完成をみていなかった(それを知った盟友・三島中洲が慌てて未完の部分を継ぎ足して完成させたといわれている)。政府では甕江が東宮侍講を務めた事から贈位や授爵を検討していた。ところが、木戸の後継者を自負する山縣有朋が甕江が未だに勅命である筈の木戸の墓碑銘作成を終えていない事や逆に老中として新政府軍と戦った板倉勝静の隣に墓が築かれている事を知って激怒し、甕江は朝敵・備中松山藩の重臣であって贈位・授爵に値しないと強硬に唱えたためにその事は取りやめとなったのである。

歌人で住友財閥の要職を務めた川田順は3男にあたる。また玄孫(孫の孫)には元歌手の佐良直美がいる。








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