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林富太郎
はやしとみたろう

(1813〜1871)

玉島出身、名は保、字は定卿(ていけい)、方谷の高弟であり、牛麓舎門人の中でも年長組に属する。進よりも一つ年上で継之助来藩当時は「武育局」の総裁であった。
明治元年、松山城無血開城ののち、蝦夷地に逃亡したいた藩主「板倉勝静」に東京にて自主を説得した4人の一人、富太郎はその後「藩主を裏切った」という自責の念に駆られ、極度のノイローゼ状態に陥り誰にともなく許しを請いつつ狂死したという。
明治4年3月16日没 享年59歳






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