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松山藩財政、待ったなし方谷、大阪へ方谷改革の痛みとは経済のV字回復
松山藩、貨幣刷新方谷の軍政改革山田方谷と抵抗勢力

【松山藩、貨幣刷新】

江戸時代の貨幣経済では、幕府の発行する金貨、銀貨、銅貨の貨幣、そして各藩の発行する藩札が流通していた。藩札とは各藩が幕府に許可を得て発行する紙幣である。

藩札は原則として兌換紙幣であり、藩は交換を要求されるといつでも同額の金や銀など正貨と交換しなければならない義務をおった。しかし現実には貧困にあえぐ諸藩は交換準備金である正貨をも使ってしまい、ほとんどの藩札は不換紙幣と化していた。

備中松山藩の場合もご多分に漏れず、準備金のないままの増刷によるインフレ、その上偽札まで出回って、藩の発行する5匁札は藩民の信用をまるで失っていた。

この藩札の改革に於いて、方谷は信じがたいおふれを改革開始と同時に出した。「世に流通している5匁札を、3年の期間内ですべて買い取りいたします。」
この爆弾発言は藩の財政担当者にとっては完全に理解の範囲を超えていた。

「いくら、10万両の借金が棚上げになったからとはいえ、藩政改革はまだ始まったばかり、いったい何を考えているのだ!」そのうえ方谷からの指示は
「滞ることなく両替をすすめよ」というものだった。担当者からしてみれば、まさに絶望的な気持ちになっただろう。

しかし、方谷にはある確信があった。以下は「炎の陽明学−山田方谷伝−」より引用である。

『市中に出回った金は、必ず次の経済の芽をはぐくむ。人々が末期的な社会不安におびえて懐を必要以上に締め付けたとき、流通経済の動きが止まって腐臭を放ちながら瓦解してゆく経済の鉄則を、方谷は江戸時代の、否、日本の過去のいかなる人物よりも鋭く、明確に理解していた。貨幣をスムーズに循環させ、ひたすら家中に死蔵させぬ今一番の最善の方法は、社会不安を取り除くこと、すなわち、藩の威信を取り戻すことにある、と方谷は確信していた。』

両替金の算段はさぞ大変なことであっただろう、方谷の読み通りこの大騒ぎも収まり、両替期限の3年が経過した9月、方谷一世一代のデモンストレーションが高梁川河川敷にて行われた、3年間買い取り続けてきた5匁札を一斉に焼き払うというのである。

このデモンストレーションには、事前に大キャンペーンがしかれ、当日は高梁川河川敷には大群衆が訪れた。河原にはうずたかく積まれた5匁札の山がいくつも見える、定時、颯爽と方谷が現れると5匁札の山に次々と火が放たれた。

観覧客から口々に「もったいない、もったいない」のこえが思わずでる、朝8時より行われたこのデモンストレーションは夕暮れ4時までかかりようやく終了した。この一大デモンストレーションは藩の威信を取り戻すのに絶大なインパクトを与えたのは言うまでもない。

その後、鉄の事業成功により巨額の両替準備金を得ると、方谷は満を持して「永銭」という新しい藩札を発行した。この永銭は発行されるや絶大な信用を民衆から得た。永銭の信用力は松山藩を越え他藩にまで流通した。

永銭は松山藩を越え他藩にまで広く流通した。永銭の流通量が増えるにしたがい、藩の倉庫には両替準備金である正貨がうずたかく積み上げられてゆく、方谷は棚上げにしてもらっていた10万両の借金を当初の約束より遙かに速いペースで前倒し返済をしていった。


わずか8年のあいだに10万両の借金は、10万両の蓄財へと姿を変えた。





  

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