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松山藩財政、待ったなし方谷、大阪へ方谷改革の痛みとは経済のV字回復
松山藩、貨幣刷新方谷の軍政改革山田方谷と抵抗勢力

【方谷の軍政改革】

方谷がまだ藩校有終館の学頭だった時代、彼は新しい砲術の研究と軍政の改革の必要性を感じ、親藩である津山藩に西洋銃陣の大要をならいに行っている。

備中松山藩は人口5万人前後の小藩であり、藩内の軍事力である士族は全人口中の5%前後に過ぎず、これは薩摩藩の20分の1と余りにも頼りない。

方谷が松山藩の総理大臣になった頃にはすでにアヘン戦争が勃発、中国が敗戦するなど欧米の列強の影がちらりほらりと見え隠れする時期であり、軍隊強化の必要性を強烈に感じていた。

しかし松山藩の武士達に西洋銃陣を会得させるのはいささか無理があった、西洋銃陣とは横並びの兵が銃を持ち指揮官の指揮の元一斉に攻撃するという軍隊編成であり、当時の「一対一、正々堂々」といった戦争になれていた武士にとってはとうてい受け入れられるものではなかったのだ。

そこで、方谷が着手したのが藩の85%もの人口をしめる農民による「農兵隊」の編成だった。
方谷は比較的金銭的、時間的に余裕のある村々の村長を集めその子弟の中から強靱な若者を選び、「里正(村長)隊」を編成、銃と剣を与え厳しい訓練を施した。

次に、山野を駆けめぐる猟師たちを集め銃隊を編成、若く元気な百姓のこども達を農閑期にあつめ里正隊の教育のもと銃の徹底訓練が施された。この中国の明の歴史から方谷が学んだ農兵隊はやがて千名を越え当時の日本に於いても有数の強力な軍隊の誕生となった。

安政5年、備中松山藩の劇的な藩政改革を聞きつけて、長州藩の久坂玄瑞が備中松山藩に来遊した際、高梁川の桔梗河原での農兵隊の演習に出くわした。

たった5万石の小藩であるはずの備中松山藩のおびただしいほどの軍隊の数に息をのんだという、その軍隊は最新式の銃砲を装備し、号令にしたがって整然と動く、その訓練されきった西洋銃陣に久坂玄瑞は長州の敗北を意識したという。

その上、久坂玄瑞に追い打ちをかけたのが、その軍隊が正規の武士ではなく農民で組織されたものであるという事実であった。

幕末に活躍した長州の「奇兵隊」のモデルになったのが、この方谷率いる農兵隊であったことはあまりしられていない。








  

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