玉島事件 熊田恰の死
鳥羽伏見の戦いに敗れ、将軍慶喜とともに夜陰にまぎれ大阪城から逃れるため、勝静はそれまで自身の警護に当たっていた熊田恰(くまだあたか)以下150名の松山藩士をひとまず国へ帰るように命じた。
熊田恰が14隻の船を雇い大阪を出発したのは1月7日、途中強風に妨げられ備中松山の飛び領土である玉島に着いたのは10日後の17日、きしくも方谷が備中松山城の無血開城を決め、藩士たちが領土外への撤退を進めていた最終日であった。
玉島は地理的に備前岡山藩の目と鼻の先、熊田ら総勢150名の部隊の玉島上陸はすぐさま備前岡山藩に知れわたり、熊田隊は岡山藩の大部隊に瞬く間に包囲された。玉島の住人はこの土地が戦地と化す不安で大混乱となった。
「鳥羽伏見の残党をみすみす取り逃がしたとなると、備前岡山藩のメンツは丸つぶれとなってしまう」備前藩としても、松山城の開城後とはいえ、熊田部隊を黙認できる状態ではなかった。
熊田部隊の玉島上陸は方谷の耳にもすぐに届いてきた、「このまま放置していては、幾名もの無駄な命ををとすこととなる、」いかに方谷とはいえ、この事態を納める手段は一つしか見あたらなかった。
「150名の命にかえて死ね。」
熊田恰の元に方谷の密使が密書を携え訪れたのは1月21日のことだった。
熊田の切腹は玉島の松山藩御用達である柚木邸で行われた、介錯は熊田一族きっての剣の使い手大輔、熊田の座す下には血を目立たなくする赤い毛氈がしかれた。
「お覚悟の時でございます」
最後に熊田に声をかけたのは川田剛だった。
松山藩士たちの見守る中、襟を正し東に向かい深く頭を下げた、江戸にいるであろう藩主勝静への最後の別れであった。そして・・・・
柚木邸内に松山藩士たちの慟哭の声が響いた。
民家に1戸の焼失家屋もなく、ただひとりの死傷者もなく静かに軍門に下れたことを密かな誇りとしていた方谷にとって、この思いもしなかった犠牲はどれほど悔しかったことであろうか。
方谷は長瀬の自宅で熊田の最期を聞いたという、そして人前では泣かぬといわれた方谷が涙を流した。
現在、玉島には熊田神社という神社がある。玉島の地を戦火から救った英雄として熊田恰は玉島市民の手によってに祀られている。
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