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【黒船襲来】
黒船来襲

嘉永6年(1853年)6月3日、板倉勝静が奏者番に任命されてからちょうど2年後のこと、江戸幕府崩壊の最大のきっかけとなる事件が起こる。
そう、ペリー率いるアメリカの巨大な軍艦4隻が浦賀沖に姿を現した、世に言う「黒船襲来」である。

このころイギリスやフランスなど世界の列強は、中国やインドなどを次々と植民地化しアジアへの覇権を争っていた。ペリー率いる4隻のアメリカ軍幹部隊も「開国しなければ、江戸の町を火の海にする」と、有無を言わさぬ強硬な姿勢で日本に開国を迫った。

この国家の一大事に、江戸幕府のとった政策は「ぶらかし」策といわれるもので、その内容たるや、ペリーの開国要求を拒むとも拒まぬともいえぬ曖昧な返答で返し、きっちりとした結論を出すので来年また来てほしい、来年来たらまた同じ返答をし、またまた帰っていただく、といういかにも日本人らしい無策な対応だった。
この先送り体質は今も昔も変わっていない。

さて、そんな幕府に対し、「戦うべし!」という論調を主張したのが佐久間象山だった。象山の考えは「戦ってもおそらく日本は負けるであろう、しかしわずか4隻の軍艦では日本も致命的な打撃をうけるほどのことはないだろう、この敗北を期に攘夷の気風を盛り上げ、挙国一致で列強と対峙しよう」というものだった。

しかし、象山の主張は幕府には取り上げられず、「ぶらかし」策に奔走する幕府に見切りをつけた象山は一転、開国論者に変貌する。

「たとえ国禁を犯すこととなっても、欧米に日本人を派遣しなければならない、このままでは日本も中国やインドの二の舞となってしまう、欧米の知識をもって日本を改革しなければ明日はない」

日本中を混乱の渦におとしいれた黒船の最初の来航は意外とあっさり引き上げていった。しかし、翌年には8隻の大艦隊で再び日本に現れた。

「交渉決裂のあかつきには、琉球を占領し、そこから日本と決戦に及ぶ」

昨年の黒船撤退以降、なんの対策も打っていなかった幕府はなすすべなく、3月3日、日米和親条約を締結させられ、下田、函館の2港を海港、アメリカの船に対する物資の補給などを約束した。

このとき、国禁を犯し黒船に密航しようとしたのが佐久間象山の命をうけた吉田松陰と金子重之助の二人だった、二人は下田沖のペリー艦隊に小舟で近づき、必死に乗船を嘆願したが、日本の国法を犯すわけにはいかぬと乗船を拒否され、その後幕府にとらえられてしまう。

結果、金子は安政2年に獄死、吉田松陰も獄中生活の身となった、佐久間象山も密航事件の主導者として囚われの身となる。
彼らの密航計画は失敗に終わったが、この事件は広く知れるところとなり、多くの幕末の士達に多大な影響を与えることとなった。


そして、この日米修好通商条約勅許問題と並んで政局を大きく揺るがしていたもう一つの難題が「将軍継嗣問題」である。第13代将軍家定は病弱でかつ聡明さにかける将軍であったことから、「この日本の難局を乗り切るためには優秀な後嗣をたてて将軍をサポートする必要がある!」という議論が幕府中に巻き起こっていた。

当時、誰を将軍の跡継ぎに据えるかについては2派が真っ二つに割れて議論していた。一派は将軍家定と従兄弟の関係にあった紀州藩主徳川慶福(よしとみ:後の徳川家茂)を擁立しようとする南紀派と、もう一派が徳川斉昭の子で聡明と聞こえの高い一橋慶喜(後の徳川慶喜)を擁立しようとする一橋派である。

この当時、板倉勝静は一橋派に属していた、詳しい資料は残っていないが家臣の三島中洲が「勝静公は一橋慶喜公擁立に同意であった」と語っている。

この将軍継嗣問題は結果的には南紀派の徳川慶福の擁立で決着がついた。
南紀派の大奥への策動と老中松平忠固(まつだいらただたか)の奔走により南紀派のリーダー彦根藩主井伊直弼が突如幕府大老に就任、6月には井伊は勅許を得られぬままアメリカ駐日総領事ハリスと日米修好通商条約を結び、下田・箱館のほか神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、外国人居留地の設定などを定めた。しかしこの条約は領事裁判権を規定し、関税自主権を否定するなど不平等条項を多く含むものだった。
また同月、井伊は徳川慶福を将軍跡継ぎに決定した旨を発表した。





  

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