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留岡幸助と至誠惻怛

福祉という言葉が、いつ頃から使われ出した言葉か調べてみたが、今ひとつはっきりしない。しかし語源については一定の定説があるようで、日本語学者の藤堂明保は「福は富なり、神の恩恵によって豊に恵まれること」「祉は、神がそこに足を止めたもうの意味」といっている。また中国の「易林」 という古典では福祉という言葉が「天の恵みによって幸せな生涯をまっとうして喜ぶこと」の意味に用いられている様である。

明治初期のまだ「福祉」という言葉が一般的でなかった頃、日本の福祉の歴史に大きな礎となる功績を残した人物が高梁から巣立った。名を留岡幸助といった。
幸助は高梁の地でキリスト教に目覚め、数多くの弾圧や危機を乗り越えながらも福祉事業に先人生を捧げた。幸助が最期の地として全力を尽くした北海道の「家庭学校」は日本最初の児童自立支援施設であり、日本の福祉の原点の一つともいえる場所となった。北海道家庭学校周辺の地域は、幸助の功績にちなんで1961年、地名を「下社名淵」から「留岡」と改められた。

さて、そんな留岡幸助とはどんな人物だったのか。
留岡幸助は、元治元年(1864年)3月4日は備中松山藩の理容業、吉田万吉と妻トメの6人兄妹の次男として生まれた。しかし生まれてすぐに分家で米の小売商を営んでいる子供のいなかった留岡家に養子としてもらわれた。

この時代、こう言ったことは珍しいことではなかったが、もらった子が男の子だったため、留岡家の夫婦・夫金助、妻勝子はたいそう喜び、そのかわいがり様は大変なものだった。
しかし養子としてもらったはいいが、幸助に飲ませるための乳がない。
「このままでは幸助が死んでしまう。」と困り果てていたところ、近所の侍の家、国分家に幸助と同じような乳飲み子がいるという噂を聞きつけ、意を決して国分家に直談判に向かった。
いくら備中松山藩とはいえ武家の家に一介の商人にすぎない金助が、武家の家に「乳を分けてください」と頼みに行くことなど、封建制度のこの時代普通あり得ないことである、しかし金助夫婦は行った。
国分家の門をたたくと
「国分様、どうか、どうかこの子に乳を分けてやって下さいませんか。」
額を地べたにこすりつけ、金助等は必死で懇願した。

「かまわぬ、一人育てるも二人育てるのも同じことじゃ」
備中松山藩士・国分胤之は豪快に笑いながらそう答えた。

国分家には幸助の生まれる前年の12月、三亥という男の子が生まれていたが、胤之の妻織衛(おりえ)は「幸助や、幸助や」と息子三亥と分け隔て無く幸助をかわいがったという。また乳兄弟の三亥も、生涯に渡り幸助を支援し、親しく関わりを持った。


明治8年、幸助8歳の時、留岡幸助のその後の人生に大きな影響を与えた事件が起こった。
当時の松山藩は教育に非常に力を入れており、武家の子に限らず商人の子でも百姓の子でもその気さえあれば誰でも寺子屋に通い勉強することが出来た。幸助も城下の新町にある寺子屋に入塾し漢籍を習った。

しかし、いくら松山藩と雖も時代は江戸時代、武士階級とその他のものでは明かな身分の違いがある。寺子屋でも武士の子はいつも威張っている、農工商の子等は武士の子等には逆らうことは出来ない。そんな中ある日のこと、幸助らは寺子屋が終わるといつものように近所の高梁川の河原に遊びに出かけた。

この遊び場には幸助らのグループの他に士族の子らも遊んでいる、士族の子供は腰に木刀を差し、いつも幸助らに絡んできた。

「おい幸助、おまえ商人のくせに何故寺子屋に来る、生意気な、商人は商人らしく家で働いておれや。」
そういったのは士族の子、坂本仲、士族の子供グループのリーダーである。
「またきやがった・・・」
幸助はそう思いながらも坂本達が去るのを無言のまま待っていた。
「何とか言ってみろ!」
坂本はさらにヒートアップする。それでも無視を決め込む幸助にいらだった坂本は腰に差した木刀を振りかざすと幸助に向かって殴りかかってきた。
「痛って!」殴られた幸助は思わず坂本の右手に噛みついた。
「いたたたたた・・」
反撃されることになれていなかった坂本は驚いて泣きながら帰って行った。
「やった!武士の子に勝った!」
狂喜乱舞!子供達は口々に叫び喜んだ。


明治8年には江戸幕府は崩壊し、明治維新は始まっていた、しかし300年培っていた封建社会が2.3年で変わるわけはない。
事件の翌朝、幸助の父金助は武家坂本家に呼び出された。
昨日のことなどさっぱり知らない金助は「何事!?」と事態もよくわからぬまま出向いていった。坂本仲の父は金助を見るなり激怒し留岡家をなじり飛ばした。
「・・以後、我が坂本家には出入り禁止である。米を始め留岡商との取引は今後一切差し止める!」

金助はフラフラになりながら我が家に戻った。戻るやいなや幸助を呼び出した。
「幸助、昨日何があったのか私に話しなさい」
父は明らかに怒っている、しかし幸助は最初何故起こっているのかわからなかった。そもそも幸助は昨日の喧嘩も特に悪いことをしたとは思っていなかった。
そして、しばらくした後、金助の形相を見てピーンときた。

「あっ、昨日の喧嘩ですか・・」
幸助は昨日あったことを話した、話すにつれて父の顔が鬼のように赤くなって行く、そして次の瞬間幸助は殴り飛ばされた。
「とんでもないことをしてくれた。」
金助は何度も何度も幸助を殴り続けた。
「僕は、何も悪いことはしていない・・」そう思ったが、口には出せなかった。
ただ涙だけがぽろぽろと溢れた。
「どうして僕が・・・・」

幸助はこのときの理不尽な仕打ちを死ぬまで忘れなかった。
同時に<士族というのは悪い奴だ・士族には絶対に負けない>という感情が芽生えた。



幸助が寺子屋に通い出して少し立った頃、高梁に高梁小学校が開校した。小学校の教師に幸助の乳母・国分家の親戚にあたる二宮邦次郎があたると云うこともあり、幸助は高梁小学校に入学した。12歳までここで学問を学んだが、留岡家の経済的事情と小学校廃校という自体を受けて幸助は小学校を退学した。金助は幸助に家業を継がせようと家の手伝いを命じた。

この頃は12歳といえばもう立派な働き手である。幸助は朝から天秤棒を担がされ、日が暮れるまで行商に歩いた。そして日が暮れてからは、家で寝る間を惜しんで勉強をした。
「士族には負けない、学問を積んで立派になれば、必ず士族にも負けない人になれる」
幸助を突き動かしていた信念は、怨念にも似たあの日からの士族への恨みだった。

このころ、幸助にはあこがれの人物がいた。言わずもがな、「山田方谷」である。農民(実際は製油業)でありながら、学問を積んでついには備中松山藩の最高権力者にまで成り上がった人、誰隔たり無く学問をする権利を与え、農民を大事にし、備中松山藩を戦場にする事もなく君臨した神のような存在である。

方谷の噂は高梁中にあふれており、何処でも方谷の偉業を聞くことが出来た。明治になっても方谷の塾には入塾希望者が絶えず、岡山県、特に高梁で学問を志すものにとって見てはまさに羨望の対象だった。幸助も又方谷塾への入塾を熱望し、ある日思い切って父に相談してみた。

「商人の子は商いをすればよい、孟子孔子などお前には必要ない。」
ある程度予想はしていたものの、けんもほろろの父の対応に幸助はガックリと肩を落とした。
もはや、独学しか自分に残された道はない。
それからというもの、幸助は方谷が勉強したという漢籍を手当たり次第に読みふけった。



明治13年、幸助は16歳の青年になっていた。
ある日のこと、市内で外国人による軍談講釈があるというので友達と二人出かけた。
その中で外国人講釈士が云った言葉が幸助の胸に飛び込んできた。
「武士の心も、農民の心も、商人の心も、神の前では皆同じである。人は生まれながらにして皆平等である・・」と
幸助の目から鱗が落ちた、生まれてこの方、そんなこと考えたこともなかった、生まれながらにして武士と農民は違うと思っていた、しかしこの外国人は「皆、平等だ。」と言っている。
衝撃だった。

そう、幸助が軍談講釈だと思っていたこの集会は、日本へキリスト教を伝道するための伝道師達だった、江戸時代堅く禁止されていたキリスト教も明治政府により解禁され多くの伝道師が日本各地で布教活動を行っており、幸助が遭遇したこの団体もまた高梁にキリスト教の伝道に来ていたのだった。


キリスト教に偶然遭遇した幸助だったが、教えが心に深く刺さってはいるもののすぐにキリスト教に入信するという迄には至らなかった。
幸助の日常は相変わらず行商の日々である。しかしこの行商というのが幸助の性格には全く不向きで、いっこうに成績を残せない、それどころか連日の無理がたたりついには倒れてしまった。幸助は元々からだが弱く、厳しかった父もついには幸助に休暇を与えた。

幸助はここぞとばかり高梁で開業している医師赤城蘇平の医院に居候しながら学問をすることにした。実は赤城蘇平は医者でありながら、かつキリスト教の伝道や自由民権運動にも積極的に参加する人物で、岡山県のキリスト教史においても重要人物である。
幸助は赤城蘇平の元で深くキリスト教を学んでゆく。

幸助17歳の時、ついに洗礼を受けることを決意する、洗礼を受けるためには面接試験があるが、幸助は試験管に洗礼を受ける理由をこう言いはなった。
「漢籍は難しい漢字ばかりで普通の人には読めません、聖書にはふりがなが振ってあり、文章も簡単なので誰でもたやすく読めます。なので、教育を受けていない一般に人を導くにはキリスト教がとても都合がいいのです。」

心得違い・・幸助は試験に落ちた。
幸助は自分に独りよがりに気づいたが時すでにおそく、1年後の試験までたっぷりと反省を重ねたそして明治15年7月2日、この年に建設された高梁キリスト教会において、同志社出身の上代知新仮牧師により洗礼を受けた。
幸助の魂が解放された瞬間だった。


先にも書いたが、高梁という土地は全国的に見てもキリスト教に対して偏見を持っている場所だった。キリスト教は「ヤソ教」と呼ばれ、日本キリスト教史上、最もひどい弾圧が行われた舞台もこの地である。

「多少のことには目をつむってきたが、まさか洗礼まで受けるとは・・」
幸助が洗礼を受けたことを知った金助は焦った。
洗礼だけは受け入れることは出来ない・・・何とか目を覚ましてやるのが親の仕事だ・・
それ以後、金助は事あるごとに幸助を怒鳴りつけた、幸助は家にいることもいたたまれなくなり、ついに家出するも、すぐに見つかり連れ戻された。

幸助の腹はすでに決まっている、たとえどんな人に説得されようとも、すでに幸助には無駄だった。金助は最期の綱と友人の警察署長に幸助の説得を依頼する、しかし幸助は
「私が信じているキリスト教は決して卑しいものではありません、これは私自身の心の中の問題であり、他の人から強制されたとしても、それが変わるものではありません。」
と頭から突っぱねてしまう。
警察所長はこの答えにカンカンになって、「こんなくそ坊主、どうにもならんわ。」
とさじを投げてしまったという。

弱ったのは金助だ。望みの綱の所長にも見放されてしまった。もはや万策尽きた。
金助は幸助を座敷牢に閉じこめると、縄でつるし上げ、叩きつづけた。折檻は一日中つづいた。

幸助が座敷牢を出たのは、それから一ヶ月後のことだった。その間、幸助は両手足を縛られ軟禁状態であったが、根負けしたのは金助の方だった。
「もういい、これ以上留岡家に恥をかかせんでくれ、今日限りお前は我が家の息子ではない。後は好きにやれ・・・・」
たった一ヶ月とは思えぬほどやつれていた、幸助も、そして金助も。


家を出た幸助は一時福西志計子を頼った。福西は幸助の先輩クリスチャンで幸助の面倒をよく見てくれた。幸助は福西家で旅立ちの準備をすると、今治へ向かった。
「今高梁にはいない方がいい、四国今治の横井時雄牧師を訪ねろ」と高梁キリスト教会の松村牧師に助言されたことが大きな原動力となっていた。
横井時雄牧師とは幕末の政治家横井小楠の長男で、同志社を卒業後今治教会の初代牧師として今治で伝道していた人物である。幸助は今治の地で初めて伝道というものを体験した。

四国での生活は幸助にとってとても充実したものだった、反対する父もいない、思う存分に自分の信ずるキリスト教を伝道できる、しかし、幸助の頭の中にどうしても切り抜けなければならない問題があった。「徴兵検査」である。当時の日本には男子は20歳になると全員が徴兵の対象となった、そして、徴兵検査で合格になると兵役が課せられた。

「このまま、身を隠しているわけにはいかん、お国のためにも、両親、親戚のためにも徴兵を逃げるわけにはいかん・・」

「高梁に返って、無事にはすまんだろうが・・」
夜逃げのように、夜陰に紛れて高梁を去った幸助にとって、高梁に返ると云う決断はとても厳しい、街は依然としてヤソ嫌いだし、親も親戚も自分のことを許してはいまい。」

しかし・・・帰ろう、それ以外、今後の自分はない。
腹は決まった、幸助は高梁の助人。赤木蘇平に心中をかいた手紙を送り、なんとか高梁への帰郷が無事済むことを願った。

意を決して帰ってきた幸助を待っていたのは思わぬ展開だった。
まず、一番驚き、微妙な気持ちになったことは「徴兵検査」不合格という結果である。
元々体の弱かった幸助であるが、うれしい反面お国のためと気張っていた気持ちが滑ったことと、健康な男児として不合格と言われたことにとまどいを覚えつつも、これで伝道が続けられるという気持ちが入り乱れた。

もうひとつ、あれほど迫害した金助ら夫婦が涙をもって幸助を迎え入れたこと。
幸助が高梁を去ったあと、留岡家は窮地に立たされた、幸助に与えた折檻などが表沙汰になり、新聞にまで書かれることとなった。また夫婦の間でも幸助をめぐって意見が対立しあわや離婚にまで発展しかねないところまで来ていた。
また、幸助には幼い頃から許嫁がいた、夏子と言い、幸助同様幼い頃留岡家に養女として迎えられていた、夏子は幸助が今治に逃げる際も両親にばれぬようさまざまに手を尽くしてくれた、そんな夏子が幸助をおうように受礼を受けクリスチャンになってしまった。
そんなバラバラになりかけた家族にとって、幸助こそがかすがいである、と金助は悟っていた。そのうえで、赤木蘇平も幸助のために金助と連絡を取り話を詰めていたのだった。

父を、母を、そして夏子に迎えられた幸助はやっと心の奥に刺さっていた何かを抜くことが出来た。


明治17年、21歳のとき、幸助は同志社への入学への思いを募らせていた。新島襄が高梁に伝道に来たことも知っている。今の日本のキリスト教の総本山である同志社へ、その上同志社は単に牧師の教育だけではなく、多くの学科を教え、様々な人材を輩出している。
同志社へ行きたい!
幸助の熱望はあっさりと叶う、教会の使徒らが幸助の学費を出してくれるという。
そして幸助は同志社へ入学した。すでにいい年で、経験も豊富な幸助を学生達は先輩として歓迎したという。幸助はここで様々な人脈と知識・経験を積み重ねた。

同志社卒業後、幸助の最初の赴任地が決まった。京都の北の端、丹波教会に来て欲しいという。
丹波での幸助の伝道は壇上で演説をするようなものではなく、民衆の生活に密着し、一軒一軒家を訪ねあるいては悩みを聞くと言う日々だった。
なかでも幸助が力強く訴えたのが家庭教育論である。

「大切のことは教育です。子供とは大理石のように純粋なものです。親は彫刻者となり作品を作るのです。また、子供とは田畑です。作本のできが悪いときには、農耕の方法が悪いのか、農夫が悪いのです。

そのために、まず家庭教育で改めなければならないのは、教育の上で家柄をなくすことです。教育とは誰もが平等に受けることが出来るべきもので、家柄や身分、職業によって親が自分の意向のみで押しつけることはよくありません。

第2に、子供に対する愛は盲目的でも一時的であってもいけません。道理をわきまえた愛が大切です。

第3には、子供の教育は義務として行わなければなりません。現在の商業主義的な教育では本来の教育は出来ません。

そして、君子でも、泥棒でも一度は通過するのが家庭です。君子が君子となり、泥棒が泥棒となるのは個人の気質の問題ではありません、家庭によって作り上げられるのです。」

そんな家庭を重んじる幸助の考えが育ったのも、留岡家での紆余曲折があったからこそで、明治22年9月7日、幸助は実家に帰った折、許嫁の夏子と高梁キリスト教会で結婚式を挙げた。幸助25歳・夏子23歳のときである。
またその4ヶ月まえ、幸助の母勝子が洗礼を受けた。翌年3月には父金助も洗礼を受けクリスチャンとなった。
幸助の両親は「信仰を貫き、神の教えに従って欲しい。」と若夫婦に言った。
又23年1月19日、幸助が尊敬してやまない新島襄がこの世を去った。



幸助の新たな転機は一通の手紙と共に来た。
差出人は金森通倫牧師、手紙を読んで、幸助の動きが止まった。そして目が一瞬天を仰いだ。


手紙を読み目つきの変わった幸助を見て不安になった夏子は訪ねた。
「金森さんはなんと?」

「うん、どうも、金森さんは私に教誨師として、北海道に行って欲しいと言うんだ。」
教会史とは、刑務所で受刑者などに対して徳性教育をし、改心するように導く人のことである。
「北海道は、遠いな・・」
幸助は言葉を詰まらせた。
「わたしは、・・私はあなたと一緒ならば、何処にでもついて行きます。」
と、夏子は言った。

金森通倫とは高梁キリスト教会の設立に関わった人物で、同志社の先輩でもある。
幸助には金森に数えきれぬほどの恩義があった。
そんな人からの依頼であれば、断るのは忍びない、しかし、いまやっとこの丹波の地での成果は見え始めた時期だし、今となっては土地の人も私を必要としている。


北海道行きに関しては、幸助を悩ます原因がもうひとつあった。「教誨師」という職に関してである。幸助は学生時代、たまたま目を通し、そのまま虜になってしまった本があった。ジョンはワードという人物の著書で「Twelve Noble Men」という。この本は「監獄改良」と言うことがテーマの本で、ハワードは本の中でヨーロッパの各国の監獄の現状を細かくレポートし、その問題点や改善策などを提起していた。そして結論として「監獄は悲惨であればよいという考えは間違っている、まじめに彼らに接し、善良な業を与えれば、彼らは普通になる。」というものだった。
幸助はこの考えに大いに賛同し、その後どんどんとハワードの研究に傾倒していったという経歴を持つ。そんな幸助にとって「教誨師」はとてもやりがいのある努めだった。


当時の日本では悪人の定義は性悪説で、悪人は生まれもって悪人であるためそんな奴らに道を説くことは不必要なことだ、と言う考えが一般的だった。

そんな時代背景であったが、幸助は悩みに悩み抜んだ結果決心した。
「行こう!」
丹波の人も、地元高梁の両親や知人達も大反対だった、しかし一度決心した幸助の気持ちは変わらない、幸助一家は北海道へと旅だった。


幸助の着任した監獄は、空知集治監といい、札幌から東に40〜50kmの場所にある。6ヶ月の乳飲み子をつれた長旅に幸助家族はへとへとになりつつも何とか空知にたどり着いた。

空知に到着した幸助は、早速刑務所の現状調査に入った。そして幸助が知った現実は、想像を遙かに超えていた。

「ここでは、囚人は人間扱いされていないのか・・・」
当時の刑務所では囚人は赤い襦袢を着せられ、手足には重いおもりが鎖によってつながれている。
囚人達は鉱山や新土地の開拓などの過酷で危険な場所での労働を強制されており、逃げるものや逆らうものには体罰や、ひどいときにはその場で射殺されるなどの行為が横行していた。

幸助は空知の監獄でも、丹波でしたのと同じよう、一人一人と対話し囚人らの心を何とか安らげようと努力する、しかし、監獄内で幸助がいかに努力し、一人一人の心のトゲを抜こうとしても、監獄での囚人への待遇が根本的に非人道的なものであっては自分の無力さを思い知らされてゆく。

問題意識で爆発しそうな幸助に、上司の大井上から主張命令が出た。
「留岡君に網走の監獄で教誨をしてもらいたい」

この大井上と言う人物は、幸助が北海道にやってきて初めてあった人物で、内務省の役人で北海道の監獄の責任者である。当時の北海道では囚人を労働力として働かせる制作の元、道内におおくの集治監がつくられ、全国から集められた囚人達は過酷な労働を強要されていた。そんな中、大井上は着任早々積極的に監獄に同志社卒の教誨師をあてる施策をとって、囚人達の心のケアに努めていた。

その井上が幸助に網走行きを命じたのには、熱心で頭がよく、問題意識の強い幸助を「原胤昭(はらたねあき)」にあわせるという意図があった。原胤昭とは後に「免囚保護の父」と呼ばれた人物で、幸助に先立ち、囚人達を親身に教誨し、囚人の待遇改善のため国と戦っていた。
原は元々は兵庫県の監獄の教誨師として働いていた、当時囚人は続々と北海道に送られており、兵庫からも400名が釧路に送られることとなり、原はその付き添いとして釧路にやってきた。そして、釧路での囚人たちの現状を目のあたりにして

「これは・・惨い、緩慢な死刑と言わずして、なんと表現できようか・・人間性を無視した行刑だ・・」と立ちつくした。

これ以後、原は北海道の囚人の現状を細かく把握しようと様々な記録をかたっはしから調べて回った。僅か6ヶ月間に300名の囚人のうち145人が眼病になり、72人が死んでいる、さらに刑務官に逆らい斬り殺された囚人も毎日のように出ている。

「このまま兵庫に帰るわけにはいかない。」

「大井上さん、あなたもよくご存じのはずだが、今のこの現状は、許し難い、人間として許し難い蛮行です。即刻中止してください。
原は大井上に現状を訴えた。

すさまじい気迫で迫る原に、大井上は何も言えない。
一役人にそんなことが出来るわけない・・・と大井上は思った。

「わかりました、あなたがしないのならば、私が何とかします、大井上さん、取り敢えず私を釧路の教誨師に任命してください。」

原の気迫はなおも激しく大井上に迫る。
「わたしに、出来るだろうか・・・」大井上もまた、現状の問題を痛いほど感じていた。
「出来ます、力を合わせてやれば、出来ます。」
大井上はこのときそれまでの自分を恥じたという。
「やりましょう、原さん」

それから2ヶ月後、原胤昭は釧路集治監の教誨師として正式に任命された。



明治24年9月
夏子が不安そうに幸助を見送る。
「お気をつけて・・・」
江戸時代に比べると、交通も道もずっと整備されているとはいえ、ここは北海道、夫の長旅に不安を隠せずにいる夏子に幸助は
「大丈夫、僕が留守の間、家をよろしく頼む」というと徒歩で駅まで歩いた。

上司の大井上の名で、期せずして網走に向かうことになった幸助には、この機会にとある計画を考えていた。幸助にとってもこれからの旅は自らの計画を実現させる第一歩である。

その幸助の計画とは、一つは北海道の囚人の状況をつぶさに見て、全体の現状を把握すること、そしてもうひとつがそれらの現状を全く知らない者に知ってもらうべく、雑誌を刊行すること。

空知から札幌に着いたのは23日のこと、幸助は牧師仲間や大井上に雑誌発行について意見を求めた。しかし牧師仲間から帰ってくる言葉は、幸助が期待していた好意的なものではなく、むしろ「資金はどうする」「そんな物、長続きするわけない」といった否定的な物ばかりで幸助を落ち込ませた。

ところが大井上は幸助の雑誌刊行のプランを聞くと目の色を変えた。

「留岡さん、それはすばらしい。原さんとあなたが力を合わせて取り組めばきっと成功します。私も出来る限り協力させていただきます。みんなで力をあわせてがんばりましょう。」

幸助は網走に向かう途中、札幌農学校で教授をしている新渡戸稲造を訪ねた。後に著作「武士道」で全国に知られる新渡戸だが、このころはドイツ留学から帰ったばかりの29才、幸助は外国経験の豊富な新渡戸に海外での監獄の現状を聞き、これからの日本での監獄の方向性に関して助言を求めに行ったのだった。

「留岡さん、私はアメリカやドイツ、ベルギーなどの様々な国で監獄の視察も行った。取り敢えず言えることは、我が国日本では、監獄に関しては全てが遅れていると言わざるをえない、百聞は一見にしかず、見てきなさいよ、留岡さん。」

新渡戸の言葉はどれもこれも刺激的な言葉ばかりだった、やはり海外は日本よりもずっと進んでいる。視察はどうしても必要だ・・・
この日の記憶はその後の幸助を突き動かす。


幸助が釧路に着いたのは、札幌を出てから数十日後となった。
当時の北海道は岡山や東京と比べるべくもなく、まだまだ未開の土地で、幸助の旅路も困難を極めた、命からがらでやっとのこと釧路にたどり着いた幸助は釧路について早々に目的の原胤秋との面会に臨んだ。

「留岡さん、お話は伺っています。あなたも私たちと志を共にする人だ、我々の使命は生きたまま「この世の地獄」で働かされている囚人を何とかしてこの地獄から解き放つことです。」幸助はこの夜、原自身より、彼の釧路での活動をつぶさに聞いた。


「原さん、あなたはすばらしい人だ、私は、私はあなたのようになりたい。これから私が教誨師として進む道が今はっきりと見えました。」

幸助にとって原の話は今まで目の前に漂っていた薄霧がはれ光が差し込んだような思いだった。

10月26日、47日間の旅を終え幸助はようやく家にたどり着いた。
勢いよく家の戸を開け「夏子、今帰った」といった。

夏子は一ヶ月以上音信不通だった夫の突然の帰宅に言葉を失った。
「・・・・・・・・よかった・・」

「世話をかけた、しかし、いろいろな物を得てきたよ。無事、帰ってこれて、再び君に出会えてことを神に感謝しなきゃ」
幸助は妻と向き合い深く祈りを捧げた。
 



  

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