陽明学の勉強
誠意とはなにか、と子供の頃に質問されたならば、以外と簡単に答えられたと思う。
今はどうか、山田方谷は自分の学問の根源に誠意をおいた、方谷の言う誠意とはどんなものか。
「古学大学」では誠意とは(自らを欺かない、誰もが同じように、悪臭を嫌い美しいものを好む。これは人間の本性である。だからこそ、君子はそのことを慎むのである)という。
論語の冒頭、人知らずして憤らず、も同じといえる。
今回の勉強は、方谷の誠について掘り下げていきたいと思う。
Contents
1.民を親しむ とは
得とは、いたずらに明らかにできるものではない、たとえば「孝」という徳を明らかにしようと思うならば、まずは自分の両親に親愛を尽くす。これは君臣fl夫婦、友の間でも同じことがいえる。つまり徳(明徳)を明らかにするとは、他者を信愛して尽くすほかない、明徳を明らかにすることは民を親しむことと同じことである。
大学の親民に対する王陽明の考えかたである。陽明学徒であった方谷の考えdeベースである陽明学が、誠意とは何かを教えてくれる。
ちなみに朱子は親民を新民と改め、「あたらにするとは、ふるきを改めるという意味とし、自分自身が明徳を明らかにして、それうぃたにんに及ぼし、他人の汚れを落とすこと」としている。
日本人の「親民」という言葉が持つ感覚は陽明の言う親民により近い気がする。
2.格物 とは
天下のものは本来至り尽くせるものではなく、「大学」の言う格物とはただ、心身の面で実践することを指している。
上は王陽明が格物をして語った言葉である。
大学では修養の順を8箇条に分け、格物・致良知・誠意・正心・修身・斉家・治国・平天下 の順とするが、その最初の修養が格物となる。
格物とは治国平天下をなす上でもっとも基本となるもので、天下を明らかにするにはまず国を治める、国を治めるには、家を整える、家を整えるにはそのみをおさめる、身を修めるにはまず心をただす、心をただすには、まずその意を誠にする、その意を誠にするにには、まずその知を致す、知を致すには物に格ることとする。
この基本となる格物の解釈についても、朱子と王陽明では異なっている。
朱子は知をなすには、物に格について、
致=推極、知=識、格=至、物=事 と解釈し、格物に関しては「物事の理を窮めるに至る。」とした。
さらに格物における格とは尽くす事でもあり、物事の理は窮め尽くさなければならず、23割程度では格物したとはいえない、100%尽くしてこそ格物したといえる。とした。
それに対し、王陽明は、理(聖人の道)は我々の性の中に充足しているものであって、従来、理の所在を事物に求め、それにいたろうとすることは大きな誤りであったとしsarさらに陽明は、格物窮理は我が心に自ずから足る聖人の道に依存しれなさるべき物とした。
このキズキが陽明学の始まりとなる。
3・知行合一について
知は行の目的であり、行いはちの実現である。
知は行の開始であり、行は知の完成である。
この事がわかれば、知だけを説いても行は含まれるし、行だけ説いても知は含まれる。
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大学の明徳を明らかにする工夫は只これこの誠意のみ。誠意の工夫はただこれ箇の格物のみ
と伝習録で王陽明は語っている。
また、古本大学の序文で大学の要は誠意のみ、誠意の功は格物のみ、と書いていることからも、陽明学にとっての誠意のいちずけが重要なものである。
耳目口鼻、どれをとっても、心によらなければ使うことは出来ない。逆に心が見たり嗅いだり聞いたり食べたりしたいっと思っても、耳目口鼻がなければこれも出来ない。
心がなければ身はなく、身がなければ心もない。
ただ、見えている部分を指して、身と言い、それをつかさどっているところを指して心といい、心が発動している様子をさして意といい、意の霊明な部分をさして知といい、意がおよぶ面をさして事(物)と言う。
これらはすべてでただ一つの事である。
このため、意を誠にしようとすれば、意が及んでいるその事に即して格すこととなる。その事に関わる欲をすて、天理に気するならば、そのことに関わる良知は覆われずにいたされる。
これが意を誠にする工夫である。
4.心即理とは
朱子は、自分の学問のなかで、世には理と心の二つのものがあり、その二つが集まった物が物質であるとした。
対して王陽明は心と理は一つの物であるとといた。
弟子が王陽明にこうたずねた。
「理(成人の道)にあたって、私心がない、といいますが、理に当たっていることと、私心がないことは、どう分ければ良いのでしょうか」
答えは「心即理(心は即ち理)であり、私心がないのであれば、理に当たっていると言うことなのだ、逆に当たっていないのならば、それは私心である。もし心と理を分けて表現すれば、おそらく良い結果は期待出来ない」といった。
「心が理であるならば、なぜ悪人は存在するのか」とする質問には、「悪人の心は本来の姿が失われているからだ」と答えた。
5.致良知とは
人はともすると、心のなかに天理を求めようとするが、これこそが妨げである。元来人は誰でも良知を持っている、それぞれがもともと持っている良知こそが自分自身の判断基準である。
良知は、是であれば是、非であれば非と判断し、自分自身であっても良知を欺くことは不可能である。
さればこそ、良知を欺こうとせず、良知に依存して行動することで、善は保たれ、悪はのぞかれる。
これこそが格物の急所であり、致知の実際の工夫である。良知の働きなくして格物はあり得ない。
良知とは孟子のことばである。
物を格す(ことをただす)にも、知を致すにも、意を誠にするにも、心を正すにも、その判断基準は良知であるとした。
時に伴い、物事について良知を致すことが、格物なのである。着実に良知を致すことが、誠意なのである。着実にその良知を致して、毛一本に至るまで意・必・固・我(利己心)がなくなることが、正心なのである。
なお、陽明学では致知は良知への気づきであることから致良知に統合されている。
格物、誠意、正心も致良知が包括しているといっていい。
方谷は修養の足りない物には陽明学は教えなかったが、王陽明の言葉として、「ただ恐れるのは、ガクトが容易に受け止め、一種の光景としても手遊び、着実に修養せず、この良知に負くことだ」といっている、子のことに合点したのであろう。
6.四句教とは
四句教は陽明学の根底となる考え方である。
「善もなく悪もないのが心の本体であり、善もあり悪もあるのが意の動きであり、善を知り悪を知るのが良知であり、善をなし悪を去るのが格物である。」
この正心・誠意・致知(致良知)・格物が陽明学で修養するべき項目となる。
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