方谷山田先生130年祭「特別記念講演」について

本年は高梁市の偉人、山田方谷先生の没後130年の節目に当たり、改めて方谷山田先生を追慕し、遺徳を顕彰するとともに、その偉業を些かなりとも周知するため、下記の「特別講演会並びに対談」が開催されました。

方谷山田先生130年祭「特別記念講演」
日時:平成19年6月24日(日曜日)午後1時30分開会
会場:高梁総合福祉センター2階大講座室
高梁市向町21-3  TELO866-22-7243

演題:「山田方谷先生に学ぶ幸福論」
講師:吉田公平先生《東洋大学文学部教授(中国哲学専攻)・東北大学卒業前広島大学教授・近著に「伝習録」「日本における陽明学」等》

対談


対談者:吉田公平先生 倉田和四生先生

倉田和四生先生《前順正短期大学学長・関西学院大学名誉教授・近著『福西志計子と順正女学校一山田方谷・留岡幸助・伊吹岩五郎との交友』》

特別記念講演レポート
はれはの講演レポート-です

吉田先生は、高梁の地元での生の方谷先生像はどんな存在なのかをみるために高梁を数回おとづれた事があるという。

高梁が夕張にならないよう、一番の基本は「自分は何のために、誰のために仕事をしているのか」、一番の原点となるとことをしっかりと考える、その部分で方谷先生の残してくれた資産は大きい。

明治期の方谷先生は今よりももっとメジャーだった。
方谷会会報によると、全国的なしかるべき立場にある人が日本の将来のために方谷先生を学べといっている。

デカルトの哲学では体と心は別のものとなっている、しかし中国哲学では体と心を分けない。また中国の古典を現代の私たちが読むとき、当時と今では同じ漢字でありながら意味が異なっている事を忘れて解釈しがちである。そのため意味をよく取り違ってしまうのである。

まずこれから話すところの言葉で「心」とは「人格=身体を含めた私自身」という意味である。決して「マインド」という意味ではない。また「気」も「身体という意味である。」

方谷先生の言う「気を養う」とはどんな意味か?

ある成功体験をした人間が、自分の幸福に対していろいろと助言をしたとする。しかしそれが本当に正しいとは限らない、一度成功体験をした人間は自らを否定できないため、そのことが正しいと信じて疑わない。

だからこそ、人は「気を養わなければならない」、気を養うとはどんな意味か。
それは「人間としての総合力を養いなさい」という意味である。

つまり方谷先生は、「一人一人が自己責任で考えて行動しろ」といっている。
幸福とはみづから見いだし、与えられるものではないのである。

良知とは
人は生まれながらにしてみな持っている力・つまり之も私自身という意味である。

気の哲学とは?

学生たちに「なぜ人を殺しては行けないか」と聞くと、出てくる回答は大まかに分けて3っつしかない。
ひとつめは「刑に触れるから」、次に「自分の良心にかかるから」、そして最後は「神などの超越的存在に審判されるから」、その3つしかない。
しかし、それがひとを殺してはいけない本当の理由だろうか。

まず、ひとの幸せの原点は「生きている」ということである。
「私という身体の存在こそが、幸せの出発点」である。つまり「幸せの原点とは身体あればこそである。」

そして、「殺人」とは「幸せになるための他人の身体を根本的にうばってしまう」。
ひとが幸せになるための根本的な権利を奪ってしまうのである、だからこそ「殺人」はよくないのである。

人は身体が保持されて始めて人は生きる道筋(理)を生じることができる
人が幸福を得ようとするならば、身体を鍛ればよいのである。

方谷先生の説いた「気は理を生ずる」とは、どういう意味か?

気とは、身体としての自分自身、理とは自分が生きる筋道、つまり
まず、ありのままの自分(身体としての私・マイナスの視点ではなく)を見つめる。
そして、自分の行動を人任せにしない、また他人に服従を強いたりしない。
自分とは考え方や価値観が違うからといって排除の論理はとらない。
まっさらな形で人をみる。
それぞれの身体としての(あるがままの)自分がつくる

つまり「気は理を生ずる」とは、「自分で考えて行動せよ」ということである。

間違うこともありうるということ
伝習禄では、間違いを起こす人をどう評価するか

人である以上、人は間違う。
孔子は聖人のことを「間違いを犯しても、それを顧みて反省できる人のことをいう、パーフェクトのひとのこというのではない」と言っている。

ひとは間違ってもいいのである。

王陽名の思想では「ありのままの姿でいいんだ・街ゆく人はみな聖人だ」ともいう。
どんな人でも丸の大きさに違いはあるけれど、人はみな聖人である。

ありのままを認めて、それでいいんだということを認めたうえで
コミュニケーションのなかで一番行けないのは無視することである、それは存在を認めないということだから。

陽明学で言う「心」とは「生身のわたし」という意味であり、マインドという意味ではない。ひとははじめから人間として生きる力をもっている。
人(いまのありのままのすがた)を事実として認める、そして次の一歩を進言することこそ方谷先生が皆に教えた学問である。