方谷先生「擬對策」を読む

滝澤敬司

一.はじめに。

「擬對策(對策ニ擬ス)」は、方谷二八才、天保三年(一八三三)の作である。当時方谷は三度の京都遊学中で、鈴木遺音門(程朱学)に出入りし、各地からの秀才と交わりを深めている間、帆足萬里の書に啓発されて、予て限界を感じていた朱子学から、陽明学への転換を企てていた時期である。翌年には江戸三年間遊学の許可を得て、佐藤一斎門下に入り指導を受けている。学問の志を「治國平天下」と答えて訪客を驚かせた、丸川松陰門九歳の時の志がよみがえつたのであろう。

朱子学重視の幕府方針にそむいて、敢えて陽明学を志向した背景には、幕府保護の下で単に字義解釈のみに明け暮れて、それを良しとしている当時の朱子学者の在り方に失望したこともあろうが、先に藩校有終館會頭として在藩中見聞した農民たちの耕作の苦労と過酷な納税、その米の賣買によつて莫大な利を得る富商、そして、生産せずして安穏に暮す士族達。更に松山藩のみでなく全國諸藩に蔓延(まんえん)する財政破綻、其等に伴う世相の乱れなど、幕政全体を揺るがしかねない種々な末期的綻び現象が、強く方谷の心情を揺り動かしたものと思う。その眞心が「擬対策」には溢れている。そして、ただ単に世相を批評するだけではなく、此れから志す陽明学研鑚の自らの目標、或いは課題を明示し、宣言しているように、私には思われる。

論文の題「擬対策」は、少し説明的に敷延すれば「科挙(カキョ)の殿(デン)試(シ)における策(サク)題(ダイ)の答案になぞらえて。」となる。「科挙」は中国隋の文帝に始まり清の乾隆帝まで一二〇〇年余続けられた官吏登用試験で、「殿試」は四段階ある選択試験の最終の試験。天子が自ら出題し、審査する建て前になつている。「策題」は古今政治の得失を大所高所から論評させる内容のもので、その答案を「対策」と云う。従ってこの文章は、方谷が自ら「現今の世相を論ぜよ」と云う策題を提起して答案も書いた文なのである。

科挙殿試の策題は、天子が親しく出題し、審査もする建て前なので、答案の文章には非礼にならないよう種々の制約があり、それを守りながら二千字以上の長文を格調高く書きあげねばならない。内容は無論のことである。その為か、この文章には四書五経や史記などの章句が常識として盛んに使用され居り、その眞意を理解するのに苦労する。漢文から離れて半世紀以上の私なので、多くの誤解もある筈、識者の御叱正を願うこと切である。しかし、大筋の文脈を辿る上では問題無いと思つているので、是非一読されて、この文章が有つ意義(・・)について考えていただきたい。いろいろな観点があると思うが、御参考までに私の感じた処を述べてみたい。

一.学問の重点を朱子学から陽明学に移すにあたり、研鑚の具体的な課題を自ら設定し、明確にした、と云う点については前述した。

二.國、藩に限らず、およそ人間の集合から成る組織体(自治体・企業を含めて)の改革に関する基本的考え方、方法論を示した。そのことは、二・三年後に書かれた「理財論」と併せてみればより明確になる。そして、二十年後に実行された、松山藩々制改革で見事に実証されている。

三.更に、現在の日本の改革に対して、大きく警鐘を鳴らしている。改革しなければならない本質的問題は何か、を明確にせずに、従らな数次合せ、借りものの制度改革、機構いじり、に終止して、主体である人間を忘却しては、何も改まらない。否むしろ悪化もありうることに気付かねばならない。

四.佐藤一斎門で、佐久間象山が「方今経世ノ術、泰西ノ学ヲ措イテ他ニ求ム可カラズ」と主張するに対して、方谷が「経世ノ道我儒足レリ」として激論した逸話は有名である。これは、方谷が國制改革にあたって、風土と歴史の所産である國民性を重視し、その當時の段階での無謀かつ表面的な洋風化を拒絶したものであり、それは、現在の日本の状況にも当てはまることである。「擬対策」の中に深い人間観照があることに注目すべきであろう。

方谷藩政改革研究にとって、この「擬対策」と「理財論」の二つの論文は、方谷の改革論の基本的骨格を示すものと考えられるが、理財論については、いくつかの訳文があるのに、何故か「擬対策」についての訳文が見当らない。止むをえず、不才を省みず敢て訳文に挑戦したものである。大綱に過誤は無いと思うが、細部にはいろいろ誤解している点もある筈、諸賢の御叱正を乞うものである。
なを、字義解釈の上で解りにくかった点については、後註としてあげた。

二.「対策ニ擬ス」(註1)訳文

昔はしばしば、明確に意図を示されて、しきりに直言の士を求められました。それは眞に賢明な君主の美徳であり、世を繁栄させる大切な努めでもありました。些かでも世を憂い、主君を愛する士であれば、感泣してその命に応え應えずにおれましょうか。私は元来、田夫野人で、國法や政治のことには暗く、何も解りませんが、それでも、平常書物を読んで國の治乱盛衰に関することになれば、必ず反復・熟慮しなかったことはありませんでした。

後に周易を読みました時、「泰(・)」の卦(・)九三(・・)に「旡平万陂、旡往万復、艱貞旡咎。(平(たいらか)デ陂(かたむ)カナイモノハナク、往(い)ツテ復(かえ)ラナイモノハナイ。困難ニモ固ク節ヲ守ッテ屈シナケレバ、禍イヲ兔レル)」とあり、又、上六に「城復于隍(城壁ハ崩レテ堀ニ復エル)」とあるのに、ぞっと恐ろしくなり、書物を撫でながら三嘆して考えました。「天下が生じてから久しいが、その一冶一乱は、易の『陰と陽とが循環(・・)し、消と長が交替する』と云うことで、これが古今に通ずる定理であり、万世不変の大道なのだ。だからこそ、聖人は易によつてこの理を明らかにされて、懼(おそ)れ戒めることを常に教示されたのだ。」と。

そもそも、「泰」は上下志を同じくし、万物通いあう、と云う吉(・)の卦ですが、だからと云つて、それを尚(とうと)ぶ訳ではありません。そして九三より上は、もう戒めの言葉が続き、上六になると、泰(・)は否(・)に変わつて、衰乱の兆候は必ず盛(・)治(・)の(・)時(・)に形成されるとの道理を示します。云わんとする処は極めて明白です。
ところが小人は、形にならなければ洞察できず、因循姑息、全く駄目になつてやっとわかるのです。ところが君子は、この兆候を機微の中に認識し、猛省勇断、変化して切抜けられるのです。これが『聖人は易によつて天地の変化を悉く詳(つまび)らかにし、深く探求して吉凶を定める』ことで『危ブム者ハ平ナラシメ、易者(あなどるもの)ハ傾カシム(註2)』です。治乱盛衰の原理を明きらかにして、後世を憂慮すること、これ程深いものはありません。

現在は昇平交泰の世(平和で上下交じり合い、志を同じくしている、泰平の世)であり、この戒めについて最も考えねばならない時ですが、そのことを、主君や重臣に弁じた者が一人でもあったと聞いては居りません。長嘆息せずに居られましょうか。

最近、主君の明旨を拝読しました。なんと、主君の識見度量は遠大で、早くからこのことを見ておられ、恰も危乱の世にあるかの如く、戦々恐々として懼れ戒めて居られたのです。それは「泰」の卦の「陂(ひ)復(ふく)ノ戒メ」を深く反省する「艱貞咎ナキ人」を今日始めて見る思いでした。感激に堪えず、私は敢て心の誠をすべて申し上げたいと考えた次第です。

(前文終わり。以下敬語表現は止める。)

つつしんで考えるに、烈租家康公が天与の勇智を持って幕府を開設されてより、その位を伝え、百世続く制度を定められてから、次々とそれが伝承されて来た。専ら租宗の制度を遵守して、昔からの法を誤ることなく、國家の大法は整然と秩序立ち、政令は明らかであつたので、四方の國々は喜んで服従し、四海波立たず、二百年を経過したのである。強化があまねく隅々まで行きわたつている、とまでは云えないが、常日頃守るべき道徳が沈み滅んだことはない。
恩恵が充分広まった、とまでは云えないが、村里に嘆きの声は聞かれない。刑罰を廃止できる、とまでは云えないが、盗賊が民衆を害することはない。外國の勢いが盛んではあるが、その烽火(のろし)が我が塞(とりで)を犯したことはない。実に泰平盛治の極みであつて、指摘すべき少しの問題もない。現在より良い時代は、未だ曽て無かつたと云える。見識の低い士族達は之をみて、太平の世に何の虞れもないとして易の戒めに思い及ぶ者も居ない。賢明な主君が、それを心配されて

謀り問われ、諫言の道を開かれたのは当然のことだったのだ。それでは、何に基いて衰乱の兆候を見られたのであろうか。私は一心に考え、深く推察してみた。現時点で、十中八、九その兆候と見られることは、ただ一つ、天下(・・)の(・)士族(・・)の(・)風紀(・・)が衰え廃れている事であろう。かって、 水先生司馬氏(司馬光)は東漢のことを論じて「風俗は天下の大事である。しかるに凡庸な君主は之をないがしろにする。」と云った。又、蘇子膽(蘇東波)は「天下の患いで、最も避けねばならないことは、表面は太平無事で、実体には不測の変事をもつことである。」と云っている。
私の見る処、風俗の衰えは今日極限に来ており、避けねばならぬ患ひが今より甚だしいことはない。その理由を詳しく論じてみよう。
國民を士農工商の四つに区分する制度の理由は久しい。そして各階層は各々その仕事を勤めてその利(・)で食べている。ただ士族だけは利を生む事は何もせず、人民から取り上げて生活し、しかも全体の上に位している。それは多分その仕事が大きいことだからであろう。大(・)とは何か、それは義(・)である。即ち士族の勤めるのは義(・)、民の勤めは利(・)であり、義と利に分れていることが、士と民とを区別する理由なのである。

抑々、わが國は東方、大海の表にひとり抜きんでて立ち、万國に冠たるものがあり、國民は東方精華の気をうけて生れている。その為、その本性は厳毅決烈、士は剛直で義を尚ぶ。それはすべて、この天賦の自然から出ているのである。「大節ニ臨ンデ奪ウベカラズ、危キヲ見テ命ヲ致ス」と云う孔門の諸賢人が士君子の事としていることを、わが國の士は教えられずして知り、習わずして良く行うのである。
苟(いやしく)も人民の教化を司る者であれば、どうして、その気風を尊愛養育しないことがあろうか。であるから、幕府開設の当初、烈祖家康公は、その聖武の徳によつて民衆の中に起ち、先ず節義の士を尚び、一般の人々を励まし用い、その数を増やしてゆくことによつて、士風が益々振ったのである。厚く信義を尚び、財・利について口にすることを恥じ、事に臨んで回避したり、畏れ憚る者を卑怯者と笑い、欲深で吝嗇な者や、人に媚び諂(へつら)う者は汚たならしい人間として斥けた。公の府に阿諛追従の言は無く、家には私的な追従や依頼などは無く、廉直剛毅な士風は眞に秀いでていた。天がこヽに太平の象徴を開いたことは決して偶然ではなかつた。

それ以来、世の太平は久しく続いて、士風も気風も日々弱まり、今日ではその弊害が正に極まってしまった。軟弱で外面を飾り、人頼みや諂いが士風の常態となつている。策を講じて縁をつて(・・)に頼みこむのが仕官の方策となり、僅かな利害にもついたり離れたり、全く抜け目がない。それを自分では巧くやったと思っている。偶々剛直な士が出ると、愚図とか古くさいとか貶したり軽蔑したりする。あヽ。古今がそんなに隔たっているわけでもないのに。

士風がこのようにひどく変化してしまつたのは、他でもない、昔の士は義(・)を尚んだが、今の士は利(・)を好み、自分達士族の努めるべきことが何なのかを見失っているからである。そも  義と利とは両立しないものである。利を貪る気持が心中にゆきわたると、必ず義の在り処がわからなくなる。義の在り処がわからなければ、自分を愛する心が日に日に強くなり、國を憂うる心は日に日に薄くなる。太平無事が続くと、諂うことで地位を盗み、政事を明かにしなくなる。
たとえ一つ二つ良い事をしても、すべては自分の名を衒(てら)い、誉れを売りたい私心(・・)からでることで、眞心から國を思つてのことではない。その弊害はもう我慢できない程になっている。これで、もし一旦緩急の大事に臨んだら、果して何をするのであろうか。およそ、主君が士(・)を養うのは、単なる使い走りである筈がない。自分の股昿、腹心として用い、國の為に何かをしたいと眞心から願ってのことである。しかるに使われる人の実態がこの有様では、人民の膏血を絞つて無用の人間を養うことになる。そうではあるまいか。

悪ははびこり易いものである。幕府開設以来今まで僅か二百年程で、士風がこんなにも移り変っているのだから、今、之を改めなければ、百年後にはどう変わってしまうか、全く予測できない。士崩瓦解(註3)の憂いが一度生じ、履霜堅氷の禍がついで起れば、如何なる智者がいてもどうすることも出来ない。詩經に「潜ンデ伏スト雖モ、孔之  ナリ、(註4)思ハザルベケンヤ」とある。それ故、私は今日衰乱の兆候となっていることは、必ず、これまで述べた処に存在していると考える。

さて、風俗の変化や利を好む心、それは政治や教育がそうさせるのだ、と云うが、詳細にその由来を推察してみると、原因の大部分は財政が窮乏し、士太夫が皆、貧を患い憂いている事にのみあるのだ。何故か、又、論じてみよう。

今日、日本の藩國は百単位で数えられるが、財政収支が償い、更に三年間の蓄積を有つ処は、暁の星の如く寥々たるもので、反対に支出が収入の倍もあって、当座を借戝で取繕っている処が十中七、八である。しかも、この患いのある藩が、それを戝務の基本に反しているとは知らず、その場凌ぎの小手先の術を重んじて借戝や税金の取立てに凡ゆる手段を講じている。卑しい貪欲さで利(・)を上げる説ばかり盛んで、心を堅固に保ち義(・)を尚ぶ気風は滅んでしまつた。このような風潮に敏な者達が有能とされ、之に異議を唱えるものは世事に疎い者として斥けられる。
業績や人事の考課もまた多分この考え方であろう。そこで、商売根性や汚い濁つた風潮が武士仲間に入り込み、伴なってつぎつぎと大河の流れのようになって、利害を争う巷を奔走する。それは主に此れに原因があり、勢いの赴く処、止むを得ない面もあるのだ。私はそこで思った。士風の衰えは、必ず戝政の窮乏に原因がある。苟も士風の衰えを憂慮するなら、戝政窮乏を救う方策を講じなければならない。その方策は他でもない、その根本を止め、源を塞ぐだけである。

私は以前此れについて論じたことがある。烈租家康公が大いに諸候を藩土に封じ封建制となって以来、諸侯はそれぞれの國造りを始めた。藩土の大小、地味の肥磽、それぞれ異なるが、自らの藩の分度に応じた制度を定めたので、戝庫が空になって國用が不足することなど、あり得なかつた。その上、幕府初期には、兵役や築城等の出費が現在の数倍どころではなったが、戝用は足り、今のように借金で取繕うような悪習があったなど聞いていない。それから二百四十年、藩土が昔より減ったのでも、参勤や報告が多くなつたのでも家臣へのほう扶持が非常に高くなつたのでも、ない。遠征や戦役の費用の必要など一度もない。然るに、昔は戝用が足り、現在は窮乏していない処はない。どうして本源が無いことがあろうか。

そこで、私なりにその本源を探ってみたが、ただ、賄賂が公然(・・)と行われている事と、身分に過ぎた奢りが盛んである事、の二つ以外にはなかった。常に天下に何の心配もない間に醸成され、必ず国家衰乱の禍を招来する。これは昔からの明確な戒めであって、今日でも證拠立てて明きらかにできるのである。この二つの弊害を除かなければ、戝政の窮乏を救うことはできないし、戝政の窮乏が救えなければ、士風の衰えを振起することは出来ず、士風振起ができなければ、國の衰乱の兆候は決して止められず、如何なる変事が起きるかも知れないのである。こうした弊害が現われるまでには長い経緯(いきさつ)があったし、今後に及ぼす影響は深刻なものがある。

之を改める方策は、ただ一つ、賢明な主君と執政の大臣とが、心を協せ思いを同じくして深刻に反省し、且つ実態を正しく把握した上で、時々刻々、一つ一つ、すべてを改め正してゆくしかない。そうして始めて、溜まりに溜まった悪弊と汚れを一掃できるのである。

これ以上、私がくどくど云う必要はないので、大体の要点だけ述べる。懸命な君主が大綱を把握し、物静かで欲が少なく、嗜好の欲を抑えて、はじめて天下の奢靡を止めることができる。重臣が方正廉潔で、自宅で人を謁見することを止めて、はじめて天下に横行する賄賂を禁止することができる。明主と重臣とは実に天下善悪の根元であつて、すべての人民が、上の好む処に従うこと、響きが応ずるより速やかである。そして、この二つの弊害が、古くから始まり、先々深まるものであるとしても、一朝にして改めることができるのである。真心からこの事に留意し、天下の基本は皆、此れにあることを知って、身を修め、心を正して万民の上に立ち、倦まず弛まず努めること、唐虞三代の繁栄も此以外ではない。衰乱を何で思い患うことがあろうか。実に天下万世にわたる大幸でもあるのだ。

(以下敬語表現に戻す)

その地位でもないのに政治を論じ、在野の一庶民が國政について直言いたしましたが、ここまで申し上げる意図があった訳ではありません。賢明な主君の努めて倦むことのない徳に感動して、私の如きつまらぬ志でも黙っていることができず、敢てお怒りに触れることも恐れず、極言いたしました。罪万死にあたり、恐れいるばかりです。それに、在野の臣が天下の事を論じても、小さい孔から天を覗くの類いで、どうしてすべてを御採用になることがありましょうか。然し、初めに申上げました、周易の「一治一乱、泰否相変」の原理は、天地自然の常道、聖人も深く戒める処で、私一人の私言ではありません。智徳に秀れ、事理に通じておられる明君は、早くからこの事を戒愼しておられます。私も愚かながら常々このことを心がけております。なれば、天下古今の治乱盛衰の原理は此れより他にはありますまい。心より願いますことは、この意を深く汲みとられて、倦まず弛まず、諌言の道を開き、直言の士を登用されて、天下の智慧を採り入れ用いられて、忠言嘉言が日ごとに御前に陳び、政治の欠けている処、風習の悪い処が、日に月に改め補われてゆくことであります。私の区々たる言などは論ずるに足りません。そして、易の筆法を借りるならば「平ナルモノハ常ニ平、往クモノハ常ニ往ク」ことになり、平が陂(かたむ)いたり、城壁が堀に復ったりすることは無くなるのではないでしょうか。

これが実に今日戯言の本旨であります。

(完)

三.註解。

(1)「擬対策」の題名について。
擬(ギ)は、まねる、なぞらえる、の意。対策(タイサク)は科挙の策題に対する回答である旨は本文に記述したが、科挙に関する説明が不充分なので、より詳細に関しては、 宮崎市定著、「科挙」(中公新書)に名解説があるので、一読を。

(2)「所以危者使平、易者使傾之意・・・・」
(全集七六頁七・八)
この文の返り点の振り方が、よく分からないので、危者使平と易者使傾の対句を中心として、「危ブム者ハ平ナラシメ、易(アナ)ドル者ハ傾ムカシムル所以・・・・・・」と読んだ。

(3)「土崩之患一生、堅水之禍従至」
(全集七八頁・二行目)
「土崩之患一生」は、史記で泰の滅亡を「土崩瓦解」と表現しているのを踏まえたもので、一挙に崩壊することを指し、「堅氷・・・」は易経の「履霜之戒」と云われている。「霜ヲ履ンデ堅氷至ル」の成句を踏まえて、一挙の崩潰と徐々に進行する危機とを対句として表現しているものと解した。

(4)「潜雖伏矣、亦孔之昭(・)」
(全集七八頁二行目)
此れは詩経小雅の「正月」という詩にある表現で「魚在于沼 亦匪克楽」(魚沼ニアルモ、マタ克(ヨ)ク楽シムニアラズ)に続く句で、「(魚が沼でかくれていても楽ではなく、潜んで伏せているものの、やはり、はなはなあきらかだ)」の意。孔(・)は「はなはだ」で、孔之昭で「はなはだあきらかなり」と読んでいる。但し、詩では昭(・)の字が  となっている。方谷の記憶違いか、誤植か、不明。

(5)誤字か誤植と認められる箇所。
(イ)全集七六頁、四行目
「消長相蘯(・)・・」の蘯(・)は盪(・)として、ウゴカスと読んだ。
(ロ)仝右、六行目。
「衰乱之兆必成於盛治之曰(・)之理」の曰(・)は日と読み、他に同頁後から七行目冒頭の曰(・)、七七頁後から七行目前半にある二箇所の曰(・)も日(・)と読んだ。
(ハ)仝右、七七頁、九行目。
「斤爲汗(・)下」の汗(・)は汚(・)と考えた。

右は私の使用したのが旧版の為か、新版では改められていると思う。
文章全体の読解は、私の漢文力では覚束かないので、実弟藤村俊郎(福岡大学名誉教授、中國経済史専攻)の援助を得た。註解以外にも種々指摘を受けて修正したが、それらは訳文中に大体消化されているので註としなかった。訳に取り組んでみて、旧制中学時代の漢文の先生の厳しかった御指導の有難さを泌々知った。共に記して感謝を捧げたい。

以上。


この文章は、平成17年度高梁方谷会総会において、高梁方谷会会員に配布された文章です。
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