下記文章はシンポジュウムを終え、コーディネーターである小野晋也氏がまとめられたシンポジュウムの論点整理と提言である。

1、シンポジウム概要

平成16年4月11日(日)午後2時40分から、高梁市文化交流館を会場として、「山田方谷先生が現代に間いかけるもの」をテーマとしたシンポジウム(主催:山田方谷先生シンポジウム実行委員会)が開催された、まず最初に、.高梁高校合唱部はよるアトラクション、そして、開会行事の後,吉備国際大学の矢吹邦彦教授による基調講演、そして、パネラーによるパネルディスカッションが行われるなど、3時間あまりに及ぶ長時間の会合であったが、300名を超える参加者の下で、自由闊達で刺激的な議論が行われた,
今稿では、このパネルディスカッションの内容について、若干コーディネーターの私見も交えつつ、取りまとめをさせく頂いた次第である。
互.議論の論点整理と提言

①方谷先生の教学の精神を活かした学校教育を、高梁め地で実現しよう!

山田方谷先生は、一生涯を通じて、陽明学に足場を置く教育者あった・教鞭をとられた有終館
牛麓舎、長瀬塾の痕などが、今も高梁の中に残り,この地が教学の地であったことが偲ばれる。
しかしながら、方谷先生が生涯追い求めた「格物到知」の思想や「心即理」の考え方がこの地で
今も実際の生活や現実の教育の中において、息づいて伝えられているかというと、逆に極めて形式を保守する気風の土地であり、また本音と建前を使い分けてそれでよしとするなど、陽明学に相反するする風土すら感じられてならないのである。

今,方谷先生の思想の真髄を深く研究し、それを「知行合一」の精神でで、現実の学校教育と社会教育の場に反映させてゆくならば、混迷の世に、日本中からその教学の精神が注目され、高梁市の名を高からしめるに違いないと思う。是非、ご検討を頂きたい点である。

②「方谷先生あいさつ運動」を起こし,それをまちの誇りにしよう!

山田方谷先生終生の学間であった儒学は、その基礎に礼と楽の精神を置いているが、礼とは外に
現れる形として、楽(音楽)とは心の中で響きあうものとして、他との関係を調和に導くものである。
人間は、まず形によってその教えに導かれるということを考えるならば・この高梁市においては、この
礼の精神がまちの隅々にまで行き渡る町にしてゆくことを考えては如何であろうか。具体的には、幼
少時からどんな人にもきちんと挨拶のできる子供を育て、町の中のどこにいても、みんなが挨拶の
声を掛け合うという、和やかで指互信頼感に満ち、一方できちんとした秩序を感じさせる、気風において日本一のまちを目指すのである。

立派な施設を作るとなれば、多額のお金が必要であるが、みんなが挨拶をしようということならば、お金はかからない。お金をかけずして、日本一と住民が誇り、他地域の人たちが賞賛する、そんな町づくりの一歩として、あいさつ運動を励行しては如何であろうか。

③方谷先生の人生や思想ををもっと分がりやすく伝える工夫をしよう!

このシンポジウムの中で、随分多くの方々から、山田方谷先生の教えはなかなか難解であり、それを子どもたちや他地域の人たちに伝えるのにはどうも無理があるとめ指摘がなされた。そして、他地域の例を引きながら、語り部が民話を語るように方谷先生のお話をしたり、腹話術の人形に語らせる形で子どもに興味を持たせる、また・、マンガの形でまず無理なく紹介する工夫もどうかと、様々な提案が行われた。更に、広く知って頂く鵡にはテレビが一番大きな影響力を持っているので、テレビ番組として、各地の撞偉人を紹介するような番組作りを求める声もあった。

これまでは研究者の皆さん方が山田方谷先生はとても偉い雲の上の方なのだという取り上げ方を
してきたがゆえに、逆に一般の人たちにとっては近づき難い存在としてしまったところがあったようである。間題は、この基本姿勢にあり、今後、先生を広く知って頂こうという考え方が地域で共有されるのならば、各々が得意とする表現力法で、様々なアプローチを行ってゆけば良いのではないかと思う。倒えば文化祭の時などに、歌や音楽の形でも、絵や俳句・短歌の形でも、また花でも茶でも、様々な文化分野の皆さん方が、山田方谷先生の人生と思想を共通テーマとして表現を競い合ってみるのである。
そうすると自ずから、面白い表現法が見出せると思う。そんな点に一工夫を期待したいものである。

④漢文教育・古文教育こにおいて、日本を代表するまちを目指そう!

山田方谷先生は生涯の間に漢詩を1054首残されたと言われている。そして・高梁市内にも、数多くの詩碑と共に、漢文で書かれた先生の顕彰碑が残されている。
このことを地域の一つの財産として考える時,この特徴を活かして,この高梁では、漢文や古文の教育をその地域特性として打ち出してみてはいかがであろうか。
石井勲先生は、幼少時における漢字と漢文の教育が、人間の知能を高め、また礼節を教える上に非常に効果的であると・独自の教育論を打ち立てておられる。また、論語の素読運動を進めておられる方々も,日本各地におられる。この方々の指導を受けつつ、日本吉古来の伝統的教育法を基礎に、その上に今の時代の要棄を加えて、新しい個性的教育をこの地で打ち立ててみてはどうかと考えるものである。

今、日本社会は、教育の重要性が各界で訴えられながら、なかなふその解決法を見出せずに苦し
んでいる。そのような中だけに.この地で山田方谷先生の教えを尊重しつつ、漢文・古文教育を重視した教育を研究・展開してはどうかと考えるものである。

⑤夢知悪・元気のあふれる地域を築いてゆこう!

山田方谷先生のテレビ番組を作ったプロディーサーから、他地域の人にこの方谷先生のお話をすると、”そんな立派な人が活躍された地域ならば、その後、その地域は大きく発展しているのでしょうね”と言われ、答えに困ったとい話が紹介された。会場には苦笑いが走った。
私も仕事柄、日本各地をよく旅する身であるが、偉大な仕事を為した人が生まれ活躍した土地を訪れると、逆に停滞した地域が多いというのも事実である。恐らく、余りに偉大すぎる人が活躍された後は、なかなかそれを打ち破るだけの人が現れにくく、あの人は立派だったという意識が、その教えをた
だ守ろうとする鷺考え方になり、知らず知らず町全体に保守的な気風を涌養してしまうのであろう。

それを超えるのが、私は、”夢出せ!知恵出せ!元気出せ!’の3つの書葉をしっかりと住民の皆さんの中で共有することであると考える。そして、常にその考え方の下に新しい具体像を追い求める地域が生まれるならば、その地域に活力が生まれないはずがないと考えるのである。この3つの書葉を常に頭の片隅に持って、住民皆さんが色々なアイデアを出し合ってゆこうではないか。そんな1人ひとりの取り組みの集積が、必ずや新しい町を作り上げる力になると信じているのである。

⑥”陽明の道または’陽明の丘を
目に見える具体的な運動のシンボルとして作ってみないか!

ここからは、シンポジウムの議論の中には出てこなかったが、私(小野)の個人曲アイデアとして、皆
さんに御提案申し上げたいことである。
その1つぽは、山田方谷先生がその思想の基礎とされた陽明学について、それを学び、更にその始祖である王陽明の人生等について思いを巡らせるという揚所が、今の日本には恐らく無いと思うので、この地に、それを建設してはどうかということである。

それも、立派な建物を作り運営しよとすれば、莫夫な建設費と後の運営費もかかるので自然の中
に、石碑の形で設置し、余り大きな費用がかからない工夫をすることも、併せて提案したいと思う。
実はこのモデルが、愛媛県四国中央市の新宮という土地にある、美しい自然あふれる道に12人の
人生を貫いた言葉を石碑の形で設置して、その道を「志の道」と呼んでいるのである。これなら時
々、地域の方々の協力を頂いて、石碑回りの清掃をするだけで済む。

さしずめ、この高梁市だと、備中松山城があり、そこには観光客も多い、この臥牛山中の道に、王陽
明が生まれてより亡くなるまでの人生とその折々の言葉を散りぱめた石碑を設置した道を作ってみてはどうだろうか。

⑦”方谷記念・人間学図書館”をこの高梁の地に作ってみはどうか!

高梁市にやってくると、山田方谷先生のご遺徳に加え、風情も山中の小京都の趣であり、心静かに、人生の深い真理を学んでみようという気持ちがしてくるから不思議である。
この地域性を考え、また教学の郷としてこの高梁市の未来を考えるならば、その1つのシンボル施設として、日本一の人問学図書館を作ってみてはどうかと考える、世界中の”人間いかに生きるべきか”という永遠の問いに対して解答を求めて書かれた書物を集め、また、世界中の伝記や評伝を集めるのである。そして、ゆったりと時問の流れる自然で読書三昧の時間を過ごせるコーナーを設け、また京都の哲学の道のように・静かに考え事をしつつ散策できる揚所も設ければ良い。

寒はこの計画は・私自身も愛媛県に私費で作ってみようと考えているものであるが、私費で取り組めることには限界がある。もしもこの高梁に、この人間挙図書館が出来るものならば、愛媛の方は、人生論や幸幸福論といった限定的分野での充実を図ってみても良いと考えている。
この点も、最初にお金ありき計画でなく、最初に思いありきの計画で、多くの人の知恵を集めて作ってみてはどうかと御提案申し上げる次第である。

結び

今日のシンポジウムの議論を通して、私は、改めて山田方谷先生の生き様・考え方が、”夢出せ!
知恵出せ!元気出せ!という簡単な言葉で表現できるものだと確信を持った。この表現ならば、地域の青年のみならず、小学生にでも、山田方谷先生のことを教え伝えられるのではあるまいか。
第1の”夢”とは、,山田方谷先生の場合、治国平天下の夢である。丸川松隠先生の塾に通っていた頃(9才の時)、何のために勉強しているのかと問われて、先生が”治国平天下と答えて回りの人を驚かせた逸話は有名である,方谷先生は、この夢を一生涯を貫いて生きられた。人間、可能な
ことならば、一生涯持ち続けることの出来るくらいの大きな夢を胸に抱いて、力強く人生を生きてゆきたいものである。

第2の”知恵”とは、備中松山藩再建の時に見せた、奔放不屈の敢り組みに象徴的に示されている。
真の知恵は、そこに、より広く多くの知恵を集める力を持っものであり、また、多くの人を惹きつける力
を持っているものである。方谷先生は、”雲中の飛龍”と称されていたらしい。普段は雲の中に
隠れていて、皆目その姿は見えないが、いざとなると、意表を突く見事な知恵で、人々を驚かせたといった意味だろう。そして、その知恵を求めて、日本全国から多くの人が集まってきた、この知恵の力を再評価すべきではないか。

第3の”元気”とは、多くの人の心を響き合わせる力を持つものであり、方谷先生の場合は、これが”
誠意であったに違いないと思う。真の誠があるから、肝胆照らし合いつづ、信頼して付き合う人間関
係となる。ままた、その思いが無私であり、公に尽くし抜く心で事にあたっていたから、赤心でともに事に当たることができる、それが、人から人へと伝わり、その思いめ総和が、莫大なエネルギーを生み出すことになったのであろう,農民出身と最初は蔑まされていた先生が、時と共に藩士のみなちず、領民の多くの心もつかみ.大変なパワーで、幕末の疾風怒濤の荒波の中を見事驚乗り越えていった姿に、この誠の力の索晴らしさを痛感するものである,

以上述べたように、私は、現代風に山田方谷先生を語ろうとすれぱ、この3つのキーワードで表すこ
とが出来ると考えるのである。ところで、山田方谷先生が、春日潜庵からの手紙の返書の中に、王陽明の学問について、こんなことを書かれている。

“王陽明の学間は識意を主とします。致良知は誠意のうちに在ります。しかし必ず格物が必要です。
私が思いますのに、致良知によらなけれぱ誠意の本体が明らかになりません、また格物によらなければ誠意は完成しません、致良知と格物との2つが並ぴ行われて、初めて意が誠になりまず”と。

ここに出てくる3つの書葉、「格物」「致良知」「識意」が.各々以上に述べた、夢・知恵・元気に対応しているというのが、私の考えである。つまり、方谷先生が理解された陽明学の根底に、この夢・知恵・元気の3つの言葉が潜んでいるというのが、私の解釈である。そしてこれらの書葉は・、腸明学という学問におけるものというだけでなく、現実社会のあらゆる問題に適用することの出来る、原理的な部分を表現していると、私は考えている。

つまり山田方谷先生が、陽明学において「格物」「致良知」「誠意」を語り、これらを正しく理解すれ
ば、陽明学の体系が理解できると語ると同じく、私は「夢」「知恵」「元気」の3つの要素をきちんと理解し、それを、応用間題を解く気持ちで色々な分野にあてはめてゆくならば、必ずや色々な問題に対して、解決の道筋を示してゆけるものだと思うのである。

こんな考え方を1つの足場として、高梁市の皆さんには、これから来年の「山田方谷先生生誕200
年」に立ち向かって頂きたいと思う。そして、このまちを、方谷先生生の教えを基に活力あるまちとすると同時に、その教えを全国に広めて頂きたいし、更に人類祉会全体に広めるくらいの心意気で取り組んで頂きたいと心から念じているものである。