平成18年6月25日(日)高梁総合文化センターにおいて、高梁方谷会の恒例行事である「方谷祭」が開催されました。方谷祭とは高梁方谷会が毎年方谷先生の命日である6月26日に一番近い日曜日に方谷先生の追慕と会の総会をかねて開催している行事で、今年も多くの会員が方谷先生を偲んで集まりました。
総会ではまず、方谷会の会長・大杉氏の開会の言葉に続き、方谷先生の玄孫で二松学舎大学理事の山田安之先生、「山田方谷に学ぶ財政改革」の著者で方谷先生から数えて6代目になられる野島透先生、大杉会長の献花、そののちに、方谷先生の玄孫で岡山理科大学附属高校教諭の山田敦先生より「山田方谷の伯夷論」と題した講演が行われました。

講演「山田方谷の伯夷論」

講師山田敦先生(方谷先生の玄孫【5代目】・岡山理科大学附属高校教諭)

伯夷(はくい)とは中国・殷末周初の人、孤竹国の孤竹君の長子、伯夷の父は自分の跡継ぎとして末子の叔斉(しゅくせい)を考えていた、父の死後伯夷は父の意志を重んじ、叔斉に王位につくよう薦めた国をさった人物、その後天下は伯夷の元敵国の周の国となり、自分の君主を打った周の王に仕えるのを良しとせず、山にこもりワラビを食べて餓死してしまった人物。(詳しくはこちら)
伯夷論とは方谷が二十代のまだ若いころに書いた漢詩で、孔子や孟子・司馬遷が論じている伯夷の人間性に対して自分の意見を述べている物です。
山田敦先生は、この伯夷論を読むことによって若き方谷の哲学のような物を感じることが出来ると述べられています。
「山田方谷の伯夷論」伯夷論訓点原稿(612KB)
※この原稿はPDFです。ご覧いただくにはアクロバットリーダーが必要です。
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大意(伯夷論訓点原稿の現代語読み下し文)

ああ、この世においてこのうえなく心が広い人物で、伯夷より優れている者がいるだろうか。(しかし天下の人は)いたずらに伯夷の行いを見るだけで、伯夷の心を分かっていない。もっともなことだなあ、世の人が心の狭い病に冒されていることは。伯夷は世の中が衰え、人の道徳観が変わる時代に出遭った。兵車千台を有するような大国を継がずに弟に譲り、渤海湾のほとりにくらし、周の穀物を食べず、首陽山の麓で飢えて死んだ。
世俗を気にせず一人で自ら信ずる道を行う。其の行いは他の人の意見を聞かない頑固者のようである。これが後世の人が伯夷の心が狭いとする理由であり、ある時には介子推や厳子陵と同様であると論じている。(後世の人は)伯夷の心は正義に依って立ち天命に従って、するべきことをし、してはならないことはしなかったことが分かっていないだけなのである。
兵車千台を有するような大国を、亡くなった父の遺志に従って弟に譲ることにより、子の父に対する恩を全うした。けっして徳の高い行いをしたというわけではない。たくさんの穀物があるのに食べることを拒否して、臣下が君主を殺戮してはならないと正義を訴えた。けっして変わったことをしたわけではない。ゆったりと落ち着いてくらし、のんびりと行動した。しかも、初めから意識してそのような行いをしようとしたわけではない。あの介子推や厳子陵のやからの、すぐ怒り恨み、中正をはずれた激しい行いをするような者とは、黒と白のように全く反対の人物である。どうして介子推や厳子陵と伯夷を同列で評価することができるだろうか。
そもそも最近の人は誰か一人でも自分をけなせば怒りをあらわにし、誰か一人でも自分を笑えば恥じ入るだけで、積極的に自分をけなしたり笑った人と論争しようとせず、隠れて心に恨みを抱くだけである。これこそが心が狭い病なのである。
あの伯夷はいかなる人物か。国を奪い合うような時代にいながら、国を継がずに弟に譲った。天下の全ての人が周王室を宗家とし従ったが、伯夷は従わず周で採れた穀物を食べなかった。あえて世の人がしないことをして、悔やむことがなかった。天下の人々がそしり笑うことは限りがなかった。しかし天下の人々が自分をそしり笑うのを見ても、あたかも蚊や虻が耳のそばを通り過ぎたくらいにしか感じなかった。心広くゆったりとして自ら納得し、ごみや小さいとげほどの些細な疑いも持たなかった。この世においてこのうえなく心が広い人物で、どうして伯夷より優れている者がいるというのか。
その昔、伯夷を論じた者で、孔子に及ぶものはいない。孔子が論語の中で、『伯夷は人としてなすべき道を求めて、人としてなすべき道を行うことができた。心に何の悔い怨むことがあっただろうか。』と言っているのは、なんと伯夷がこのうえなく心が広い人物であるということではないか。
その後、孟子が伯夷を柳下恵と一緒に論じて、『(伯夷は度量が狭く、柳下恵はうやうやしさに欠ける。)君子というものは潔癖すぎて度量が狭くなることなく、また人を人とも思わないような、うやうやしさに欠けることもない。』と評した。ところがこれを読んだ人が孟子の真意を理解せずに、伯夷を本当に心の狭い者だと考えてしまった。これも間違いである。孟子の真意もまた、後世の人がいたずらに伯夷の行いを見るだけで、伯夷の心の正しさを理解しないことを心配した。そこでとりあえず伯夷の行いについて論じて、学ぶ者に中正な行いをさせようとしただけなのである。
そうでなければ、(孟子が同じ所で)柳下恵は、肌を脱いだり裸でいるような無礼な者と並んでいても、自分の礼儀正しさを失わないと言っているが、その心を推し量ってみれば、まったく慎みの極みであるといえる。どこにうやうやしさに欠けるとする根拠があるだろうか。
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以上が「伯夷論」の大意です。
山田敦先生はこの詩の中でも最後に出てきた柳下恵に注目しています。柳下恵は春秋時代魯の賢大夫で、下徳の君でも平気で仕えるし、どんなつまらぬ官職でもいっこうに恥じたりせず、推薦されて仕える以上は、ひたすら才智を傾けて働き、常に自分の信ずる道を行く、また君主に見捨てられても別に怨みもせず、どんなに困っても少しもそれを苦にしない。また朝廷を去ろうとするときでも是非にと引き留められればそのまま留まったと言う人物です。
山田先生は、「若き方谷はこの漢詩の中で伯夷のことを述べながら、実は柳下恵のことを言いたかったのではないか、そして、実は自分は柳下恵の様になりたい、と思っていたのではないか」と述べられました。
そして、その後の方谷は江戸幕府が破綻すると感じていても、勝静に従事して最後まで戦ったのではないかと。
また、二十代と若いころの漢詩ですが、見事な韻を踏んでおり読んでいて気持ちがいいとも言われていました(山田敦先生は漢文の先生です。)

資料提供:山田敦先生