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①備中松山城

現存する山城としては日本一高い所にある城で、天守と二重櫓は17世紀後半に建築された当時のままの姿で残っており国の重要文化財にも指定されてる。堂々とした姿は現在でも備中高梁のシンボルとして雄志を誇る。

日本で最も高い場所にある山城で知られる。現在の天守閣は時の城主水谷勝宗が臥牛山、小松山に修復したもので国の重要文化財に指定されている。
備中の国を舞台とした「備中兵乱」の舞台にもなった。

市街地北端の臥牛山に築かれた山城で、現存する山城としては,、最も高い標高430mの所にある。天守、二重櫓、土塀の一部は天和3年(1683)に修復された当時の姿で現存しており、中世の貴重な遺構として国の重要文化財に指定されている。平成9年には本丸の南御門・東御門などが復元された。

◆休城日:年末年始
◆入城時間:午前9時~午後4時
◆入城料:大人300円・小中学生150円(団体割引あり)
◆交通:JR伯備線・備中高梁駅より車で10分、降車後、徒歩20分。中国自動車道賀陽ICより車で15分。

■お問い合わせ
0866-22-1487
駐車場20台(ふいご峠)
シャトルバスあり:往復300円

 

②中洲公園・虎口渓舎跡

虎口渓舎とは方谷の一番弟子である三島中洲の私塾の名で、昭和初期までこの場所に立っていた。中洲公園は中洲にちなんで名付けられた公園で、園内には三連水車、自然石を利用した滝「牛麓の滝」、展望台、休憩所などがあり、市民の憩いの場となっている。

三島中洲の私塾である虎口渓舎の跡地です。
現在は更地となっており、一本の碑が昔を物語っています。

すぐ近くには三島中洲を記念してつくられた公園「中洲公園」もあります

③牛麓舎跡

牛麓舎とは方谷が有終館学頭時代に設立した私塾で、後に方谷改革を支えた三島中洲や進鴻渓、矢吹久次郎などはほとんどがこの私塾の門下生だった。備中松山城登城の玄関口にあたる場所にあったが現在建物はなく「方谷先生家塾 牛麓舎跡」を記す碑が立つ。

方谷の私塾「牛麓舎」の跡地です。
現在はなにも残っておらず、跡を記す碑だけとなっています。

④御根小屋跡(県立高梁高校)

御根小屋とは松山藩主の住居と行政用の建物をかねたもので、1605年、備中国奉行・小堀遠州が頼久寺からココに移り住んだ。1681年には水谷勝宗が備中松山城と御根小屋を大改築した。現在は当時の建物は残っておらず、跡地には岡山県立高梁高校が建つ。

 

御根小屋とは藩主の住居と行政用の建物をかねたもので、慶弔10年(1605年),備中国奉行・小堀遠州が頼久寺からココに移り住んだ。天和元年(1681年)には水谷勝宗が備中松山城と御根小屋を大改築した。

現在は当時の建物は残っておらず、跡地には岡山県立高梁高校が建つ。

 

 

 

 

 

 

御根小屋 正面


当時の配置図が紹介されています。


御殿坂

⑤中洲生歯の碑

中洲生歯の碑は秋葉山麓の北側に南面して建ち、その前右側に中洲の夫人二方と両夫人に一人づつの幼女がいずれも故人となってここに眠る。中洲は自分の生歯をこれら四人の墓の傍に埋めて、哀惜の真情を詠じた。

御前神社下の境内広場から南ヘキリスト教会墓地へおりる東側(左側)の秋葉山麓にあり。中洲生歯の碑は秋葉山麓の北側に南面して建ち、その前右側に中洲の夫人二方と両夫人に一人づつの幼女がいずれも故人となってここに眠る。中洲は自分の生歯をこれら四人の墓の傍に埋めて、哀惜の真情を詠じた。

⑥八重籬神社

1793年、備中松山藩主板倉勝政公の創建で、祭神は板倉氏始祖勝重公、二代重宗公を祀る板倉氏の氏神である。境内には13基もの碑が林立しておりその数は他の場所に比べ群を抜いて多く、その多くは方谷関連の物となっている(格碑の位置関係は右上・八重籬神社配置図を参照)。また玉島で自刃し藩兵や玉島の民を救った熊田恰(玉島事件)を祀った熊田神社や藩主勝静の元お茶屋で取壊しをさけ方谷が移築した臥牛亭も境内にある。

寛政五年(一七九三年)、備中松山藩主板倉勝政公の創建で、祭神は板倉氏始祖勝重公、二代重宗公を祀る板倉氏の氏神である。勝重公、重宗公は京都所司代二代三代を五十余年にわたり勤めた。

幕末の藩主は板倉勝静公で、幕府老中であったため、鳥羽伏見の戦に敗れてのち朝敵となり、江戸、東北、北海遺と藩主のみ転戦した。高梁の地にあった藩士達は、大阪城での藩主護衛隊長熊田恰一人の責として、慶応四年(一八六八年)正月二二日、自刃し兵火を免れる。明治二年、摂社として本殿右奥に祀られた。

(情報元:城下町備中高梁神社寺院めぐり 高梁観光協会発行)


備中松山藩主板倉勝政の創建で、祭神に板倉家始祖勝重・2代目重宗を祀る板倉氏の氏神である。 社宝として備中松山城宝剣三振や藤の胴の太鼓、板倉勝重座像がありいずれも市指定重要文化財となっている。

(情報元:高梁観光百選 高梁観光協会発行)

 

八重籬神社には非常に多くの碑が建立されています。

 

⑦水車跡(舊藩御茶屋舊址)

方谷の藩政改革を学ぶため松山藩を訪れた長岡の雄・河井継之助が城下で寝泊まりした藩の宿(塵壺にも登場)。元は板倉家の御茶屋で住居を長瀬に移した方谷も半月はここを別荘として城下に勤務し、後半月は長瀬の本宅で開墾にあたっていた。

⑧頼久寺・山田方谷先生寓居址の碑

小堀遠州作の国の名勝のある寺、幕末期は参謀本部としても度々使用された。方谷先生寓居址の碑は頼久寺の車庫の南、第2駐車場のそばの民家の横にある。方谷先生が藩政の激務の身をここに於いて休養されたり詩などを作っていた家があった。

頼久寺由来天柱山安国頼久禅寺は、臨済宗永源寺派に属し、その草創は不詳であるが、暦応2年(北朝年号1339年)足利尊氏が再興して備中の安国寺と号した。

当時、中国より帰朝して備中備後路を巡錫中の寂室元光禅師(正燈国師)を迎請して、開山第一祖とした。

幕末方谷の時代には作戦本部として松山藩の藩士に活用された。


後に永正年間(1504年)松山城主上野頼久公が大檀越となり寺観を一新し大永元年逝去したので、頼久の二字を加えて安国頼久寺と寺号を改称した。

尚、当山御本尊は、聖観世音菩薩で備中西国第五番の札所であり、昭和60年3月に開創された瀬戸内観音霊場第十三番の札所である。

 慶長5年(1600年)小堀新助正次が備中国に一万石余を領したが、慶長9年に逝去したので一子作助政一(遠州)が遺領を継いだ。

そのころの松山城は備中兵乱後で非常に荒廃していたため遠州は頼久寺を仮の館とし、またよく本寺を外護され、元和5年(1619年)まてこの地にいた。

この庭園はその頃の遠州の作定になるもので、蓬莱式枯山水庭園で愛宕山を借景し、白砂敷の中央に鶴島、後方に亀島の二つの低い築山状の島を置いて石を組み、書院左手の山畔に沿ってサツキの大刈込みで青海波を表現した庭園である。

鶴島は三尊の石組を中心に周囲をサツキの刈込みで中島景観を表現し、亀島は亀の姿を具象的に表現している。又、山畔のサツキー植の大海波を表現する大刈込みは、園内最も優れた美的景観を示している。

このような築庭様式は、桃山から江戸初期に好まれたもので、現在まで旧態のまま保存されていることは、歴代城主の帰依の念篤きことと、歴代住職の愛山の念深きことによるものであって、遠州作庭中の傑作庭園と称せられており、昭和49年国の名勝(庭園)に指定された。

尚、白筆の禁札他遺愛品数点が保存されており、別に暦応2年12月西念勧進による石灯籠がある。

小堀遠州

小堀遠州は天正7年(1579年)近江国小堀村に生まれました。

幼名を作助といい大人になってからは政一と称しました。遠州は幼少の頃より父新介正次の英才教育を受け、千利休、古田織部と続いた茶道の本流を受け継ぎ、徳川将軍家の茶道指南役となります。父の逝去後、備中松山城を預かり備中の政務を司どります。

慶長13年(1608)駿府城作事奉行をつとめ、その功により諸太夫従五位下遠江守に叙せられ、これより「遠州」と呼ばれるようになります。

書画、和歌にもすぐれ、王朝文化の理念と茶道を結びつけ、「綺麗さび」という幽玄・有心の茶道を創り上げました。遠州は、後水尾天皇をはじめとする寛永文化サロンの中心人物となり、また作事奉行として二条城、大阪城、江戸城西丸などの作事(さじ)奉行としても活躍し、禁裏(皇居)の造営などにも活躍しました。桂離宮庭園(京都)や大徳寺狐蓬庵(京都)、県内では大池寺庭園(水口町)などが有名です。

頼久寺の他、大徳寺孤篷庵、南禅寺金地院などが代表的な庭園です。美術工芸においては「中興名物」の選定や、高取・丹波・信楽・伊賀・志戸呂など国焼の茶陶の指導にも偉大な足跡を残しています。

また、中国、朝鮮、オランダなどの海外への茶陶の注文にも力を注ぎました。豊臣から徳川へという激動の時代を生き抜き、日本の美の系譜を再構築し、新たに近世初頭の明るい息吹と瀟洒を極める美意識を生んだ遠州は平和な時代へ向けて基礎を築いたといえます。

 

⑨藩校有終館跡

備中松山藩の学校として建校されたが、1832年の大火により、元有終館が類焼。ときの学頭奥田楽山が中之町に再興した。同10年にはまたまた焼失し山田方谷が再興した。現在敷地内には高梁幼稚園が建つ。方谷人身が植えたと言われる大松がある。


備中松山藩の学校として建校されたが、天保3年(1832年)の大火により、
内山下にあった元有終館が類焼。時の学頭奥田楽山が中之町に再興した。

その後、同10年にはまたまた焼失し、嘉永4年に山田方谷が再興した。
現在、当時の建物はなく同敷地内には高梁幼稚園が建つ。


有終館跡、現在は高梁幼稚園
左手の建物は消防団の消防車倉庫兼公衆便所


方谷の大松

方谷人身が植えたと言われる大松

⑩武家宿 花屋跡

司馬遼太郎の小説「峠」にて河井継之助が松山藩で長いこと宿泊した武宿が「花屋」である。現在、花屋はなく跡地には高梁北郵便局が建っている。花屋のあった紺屋川筋には継之助のことを記した碑もある。(花屋は現在油屋と名前を変え本町にある。)

司馬遼太郎の小説「峠」にて河井継之助が松山藩で長いこと宿泊した宿が「花屋」です。
現在、花屋はなく跡地には高梁北郵便局が建っています。


現在、花屋跡には写真のような跡を記す碑が建っています。

⑪安正寺

備中松山城主板倉家の菩捉寺で曹洞宗に属し、板倉公歴代の香華院御霊位祭祀の道場で、大本山永平寺直轄別録所格式である。第七代勝澄公は1744年3月、備中松山城主となるや現在地に御霊堂を建立し、板倉家歴代の御位牌を祀り御仏殿とした。

備中松山城主板倉家の菩捉寺で曹洞宗に属し、板倉公歴代の香華院御霊位祭祀の道場で、大本山永平寺直轄別録所格式である。第七代勝澄公は延享元年(一七四四年)三月、備中松山城主となるや現在地に御霊堂を建立し、板倉家歴代の御位牌を祀り御仏殿とした。

初代勝重公、第二代重宗公はともに京都所司代に任ぜられ、徳川幕府最後の老中勝静公までの霊をお祀りしてある。朝敵になった当藩家臣団と朝廷側岡山藩との交渉が当寺で行われた。

(情報元:城下町備中高梁神社寺院めぐり 高梁観光協会発行)


備中松山城主・板倉家の位牌所で曹洞宗に属し、永平寺直轄別録所格式である。7代板倉勝澄は延享元年(1744年)3月伊勢亀山から入封、備中松山城主となるや現在地に御霊堂を建立し、板倉家歴代の位牌を祀り仏殿とした。

(情報元:高梁観光百選 高梁観光協会発行)

⑫郷土資料館

明治37年に尋常小学校として建設された木造2階建ての洋風建築で、現在は高梁市の江戸時代から昭和初期にかけての生活道具や写真を展示している。施設前には山田方谷没後100年祭の時に設置された「山田方谷」の銅像と記念碑がある。

⑬道源寺

当山は目蓮大聖人の遺言により、西国布教をされた日像聖人の高弟大覚大僧正を開基とし、1352年頃に御津町に創建、1595年高梁に移建された。境内には、藩老熊田恰矩芳の墓所(玉島事件で自刃)や天諌組原田亀太郎、藩儒奥田楽山などの墓がある。

 

当山は日蓮大聖人の導言により、西国布教をされた日像聖人の高弟大覚大僧正を開基とし文和年問(一三五二年頃)に備前田(御津町)に創建、文禄四年(一五九五年)、備中松山東村(現在地)に移建された。境内に藩老熊田恰矩芳の墓所がある。恰は慶応四年(一八六八年)、鳥羽伏見の戦いに敗れ藩士一五〇余名を率い藩地玉島に帰る。
官軍の追攻に恰一人の責として自刃備中松山藩を兵火から守った。八重離神社と羽黒神社(玉島)に熊田神杜として祀られる。他に天諌組原田亀太郎、藩儒奥田楽山などの墓がある。

(情報元:城下町備中高梁神社寺院めぐり 高梁観光協会発行)



当山は目蓮大聖人の遺言により、西国布教をされた日像聖人の高弟大覚大僧正を開基とし、文和の頃(1352頃)に備前松田(御津町)に創建、文禄4年(1595年)当地に移建された。境内には、藩老熊田恰矩芳の墓所がある。

(情報元:高梁観光百選 高梁観光協会発行)

天誅組 原田亀太郎の墓

⑭薬師寺・松連寺

一見すると白と見間違いそうな石がけを持つこの建物は一国一城制度のもと、松山城防備のための出城として作られた。また薬師寺は映画「男はつらいよ・口笛を吹く寅次郎」のロケ地となったことでも有名。

 

 

薬師寺・松連寺を正面から見たところ。江戸時代、幕府の一国一城政策により新しい城を築城できなかったため寺という名目で要塞を建築しました。石垣が当時を物語ります。

 

 

 

 

 

 

松連寺の境内には清水比庵の歌碑があります。
寺院ですが江戸時代は松山
薬師寺の境内 薬師寺境内内の鐘付き堂
映画「男はつらいよ」で寅さんはマドンナ役の竹下景子とこの階段で出会います。
薬師寺からのぞむ臥牛山
薬師寺の階段下には
精進料理の長船があります。

平成15年3月20日撮影

⑮高梁市歴史美術館

高梁市には備中松山城をはじめ、頼久寺や武家屋敷など歴史的に貴重な文化財が数多く残っている。常設展示は高梁市にゆかりの歴史的文化遺産である資料・書画などを展示している。問:0866-21-0180 高梁市原田北町1203-1

高梁市歴史美術館
【たかはしれきしびじゅつかん】
[カルチャーゾーン]

[施設概要] 高梁市には備中松山城をはじめ、頼久寺武家屋敷など歴史的に貴重な文化財が数多く残っています。常設展示は高梁市にゆかりの歴史的文化遺産である資料・書画などを展示しています。 [DATA] 高梁市原田北町1203-1 0866-21-0180 [交通アクセス] JR:伯備線備中高梁駅下車徒歩約7分 バス:備北バス文化センター前下車 自動車:岡山自動車道賀陽ICより国道484号線を西へ約15分

 

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