高梁図書館の書庫に入ってみると、古い漢籍、国書など有終館の蔵書と山田、進、桜井など各文庫図書が約八千冊と、高梁高校の寄託図書を入れると、約】万冊近い本が整理されずに置かれていたので、まず整理に取りかかり、在庫の書名を書き出し、その整理方法について訪ね歩くうちに、東京で内閣文庫の長澤孝三氏に幸運にもお会いでき、全面的に指導してもらってやっと整理ができた。
現在書庫内に、有終館と各文庫とその他に分け、分類に応じて配置し、書名一覧を作っている。目録作りは私の手におえないので長澤氏にお願いしている。
現段階で書庫内の整理と書名一覧表をもとに漢籍の概略をお知らせする。
書庫内の蔵書について確認冊数を見ると
所属 総計数 漢籍数(含準漢)国書数その他有終館4,3793,947432
山田文庫879598281
進文庫782658124
桜井文庫1,8611,472197192中村他!8914841
計8,0906,8231,075
高校寄託1,847699!、148
総計9,9377,5222,223
以上高校寄託を含めても漢籍(漢文で書かれた書籍)が四分の三を占めている。有終館蔵書は、藩士の学習に役立つ漢籍が主で、五経・四書を初めとする儒学関係、史書、文学書が多く見られ、山田文庫は五経・四書の他に伝習録など陽明学関係の本と漢学者の著書など漢学学習の書が多く、進文庫は進鴻渓が川面で塾を開いた関係か、五経は十五秩(厚紙のカバーでまとめた)九五冊、四書は一二秩二五冊がまとまってあり、唐宋八大家文など文学書も多い。桜井文庫には史記から明までの二十二史三九九冊と、子書百家七六冊まとまってあり、文学、教養面の書が多い。
他に明治以後の法律書、英書がまとまって寄贈されている。
有終館蔵書の八割以上を占める漢籍を少しくわしく紹介すると有終館の蔵書は、生徒の学習用に備えられた書物と思われる。
古典である五経・儒学の聖典四書が多いが、歴史、文学も重視された様子がうかがえる。
五経は四九部六六二冊で易経類(陰陽の消長に宇宙の原理・万物の変化を見る、自然と人間の道理の解明)易学正義、易学大全など六九冊
書経類(中国最古の史書、春秋時代まで)
尚書註疏、書経大全など五三冊
詩経類(股~春秋の詩三一一冊)
毛詩正義、御纂詩義折中など五三冊
春秋類(魯の国を中心とする歴史書)
左博、春秋五博など一九六冊橿記類(礼に関する雑記、王室の制度、日常の礼儀など)周礼正義、礼記大全など二九五冊
(中国の時代、股1周1春秋1戦国1秦1宋1元1明1清)
四書十六部一五二冊大学・中庸はそれぞれ五経の礼記の一部を取出し、大学は儒学の入門書で根本原理を説明、そこでは心を正し、身を修め、家をととのえ、治国平天下がめざされ、九才の方谷が目標として答えたもので、松山藩で実現した。
「中庸」は中庸(中道)の徳は言葉通であるが高貴な本性「誠」により完成されると説く。「論語」は孔子と子弟の言行録で、「孟子」は孟子の問答を門人が編集したもの。
以上四書が、南宋の時代朱喜…が特に学ぶべき儒学の聖典として定めたもので、儒学の本流朱子学として日本でも中心として学ばれた。
陽明学に関連した伝習録、王陽明全集などあるが参考程度で方谷の方針で、まず朱子学による学習が行われていた。史部(歴史書)六十部五七七冊方谷は歴史の学習を重視し、特に各時代の制度の学習を望んだといわれる。
正史が揃っている、正史として史記以来明朝まで各王朝時代の歴史を紀伝体で書いている。
冊数が多いのは資治通鑑に関するもので、北宋の司馬光が周以後を編年体(年次的に各王朝時代の歴史を書いた)で書いたもの、津藩が天保七年出版したものを六箱(一箱一四八冊内三箱は一部紛失)購入している。
資治通鑑綱目は、資治通鑑を南宋の朱黒と弟子が選び要点を書いた綱と言葉をくわしく説明した目を五九巻一〇五冊にまとめたもので、江戸期の学者必読の書で一箱にまとまって入っている。
また、歴史綱鑑補二十冊(通鑑に関する諸書を合併しお互いに相綴じる)など、歴史を重視したことがうかがえる。
子部は二三部二六一冊
諸子百家に入る書物で、儒家の作品が多く朱子の近思録備考四冊、性理大全四八冊、他に小学書(朱子の弟子選)などあり、管子に関する四部十九冊、韓非子職原抄(全書)五六冊などがみられる。
集部など一一四七冊
集部の文学書も多く柳文(柳宗元)五二冊、韓文(韓愈)四七冊、文選正文六五冊他文選類六四冊、増評唐宋八大家読本十四冊、朱子文集(三十五冊)、淵鑑類亟(唐宋元明の詩文事績をあつめて整理、故事の検索に最良)十九秩一八八冊
集以外でも、武備志(一箱八一冊武備・兵事の歴史の事実論説を編輯)など多方面にわたっている。
併し、日本教育史(文部省明治二三年刊)の資料によると、経類(四書五経)一一五部(在六六)、史類一四二部(在六十)、子類二四三部(在二三)、集類六六部とあり、かなりの部数が失われている。
又、かなりの書物が他の文庫に移っているのかもしれない。
国書については、日本教育史には、日本外史、大日本史の書名があり、漢学を主として傍ら国書を読ましめ……とあるので、自ら学ぶ教材として、色々な分野の国書が用意されていたと思われる。頼山陽著の「日本外史」(文政十年刊、源平二氏から徳川氏の武家政権の盛衰、尊王思想)が二種三二冊、山田文庫に一二冊、進文庫二一冊がみられるが大日本史は見当らなかった。他に「古事記伝」、「萬葉集略解」などの日本古典や、「天文図解」など天文に関するものや、海防に関する林子平の「海図兵談」(九冊)や、学者などの説を集めた「海防彙義」など、多方面にわたり、幕末時の時代を知る書物も多い。
また、国学についても国学者として有名な平田篤胤は、江戸詰の藩士の養子になり一時松山藩士であったので「古史徴」など幾つかの書物が残っている。
以上、有終館蔵書について一部紹介したが、各文庫も含めて幕末時の方谷を中心として多くの学問研究がなされ、方谷は豊かな学識と学研的な学習で藩財政の確立だけでなく、全国的情勢や世界の動きも軍事技術も含めてかなり的確に把握して、藩政を指導していったと思われ維新時の藩の対応も的確になされている。
当時の松山藩の学問水準は高く、備中地区の中心として発展し明治維新以後多くの人材を中央に送りだしていった。
「高梁方谷会会報より抜粋」
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