大学の明徳を明らかにする工夫は只これこの誠意のみ。誠意の工夫はただこれ箇の格物のみ
と伝習録で王陽明は語っている。
また、古本大学の序文で大学の要は誠意のみ、誠意の功は格物のみ、と書いていることからも、陽明学にとっての誠意のいちずけが重要なものである。
耳目口鼻、どれをとっても、心によらなければ使うことは出来ない。逆に心が見たり嗅いだり聞いたり食べたりしたいっと思っても、耳目口鼻がなければこれも出来ない。
心がなければ身はなく、身がなければ心もない。
ただ、見えている部分を指して、身と言い、それをつかさどっているところを指して心といい、心が発動している様子をさして意といい、意の霊明な部分をさして知といい、意がおよぶ面をさして事(物)と言う。
これらはすべてでただ一つの事である。
このため、意を誠にしようとすれば、意が及んでいるその事に即して格すこととなる。その事に関わる欲をすて、天理に気するならば、そのことに関わる良知は覆われずにいたされる。
これが意を誠にする工夫である。
5。心即理とは
朱子は、自分の学問のなかで、世には理と心の二つのものがあり、その二つが集まった物が物質であるとした。
対して王陽明は心と理は一つの物であるとといた。
弟子が王陽明にこうたずねた。
「理(成人の道)にあたって、私心がない、といいますが、理に当たっていることと、私心がないことは、どう分ければ良いのでしょうか」
答えは「心即理(心は即ち理)であり、私心がないのであれば、理に当たっていると言うことなのだ、逆に当たっていないのならば、それは私心である。もし心と理を分けて表現すれば、おそらく良い結果は期待出来ない」といった。
「心が理であるならば、なぜ悪人は存在するのか」とする質問には、「悪人の心は本来の姿が失われているからだ」と答えた。
6。致良知とは
人はともすると、心のなかに天理を求めようとするが、これこそが妨げである。元来人は誰でも良知を持っている、それぞれがもともと持っている良知こそが自分自身の判断基準である。
良知は、是であれば是、非であれば非と判断し、自分自身であっても良知を欺くことは不可能である。
さればこそ、良知を欺こうとせず、良知に依存して行動することで、善は保たれ、悪はのぞかれる。
これこそが格物の急所であり、致知の実際の工夫である。良知の働きなくして格物はあり得ない。
良知とは孟子のことばである。
物を格す(ことをただす)にも、知を致すにも、意を誠にするにも、心を正すにも、その判断基準は良知であるとした。
時に伴い、物事について良知を致すことが、格物なのである。着実に良知を致すことが、誠意なのである。着実にその良知を致して、毛一本に至るまで意・必・固・我(利己心)がなくなることが、正心なのである。
なお、陽明学では致知は良知への気づきであることから致良知に統合されている。
格物、誠意、正心も致良知が包括しているといっていい。
方谷は修養の足りない物には陽明学は教えなかったが、王陽明の言葉として、「ただ恐れるのは、ガクトが容易に受け止め、一種の光景としても手遊び、着実に修養せず、この良知に負くことだ」といっている、子のことに合点したのであろう。
四句教とは
四句教は陽明学の根底となる考え方である。
「善もなく悪もないのが心の本体であり、善もあり悪もあるのが意の動きであり、善を知り悪を知るのが良知であり、善をなし悪を去るのが格物である。」
この正心・誠意・致知(致良知)・格物が陽明学で修養するべき項目となる。