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藩主勝静江戸へ遁走

慶応4年(1868年)1月3日、第15代将軍・徳川慶喜のいる大坂城を薩長の4千5百の兵が取り囲んだ。幕府軍の軍勢は一万五千人、数の上では圧倒的に幕府軍有利という状態である、しかし時代の流れは既に幕府の側にはなかった。すでに慶喜には幕府軍すべてを統率する力は残っておらず、決起立つ幕府軍を残したまま板倉勝静、松平容保、松平定敬らを数名を引き連れて、夜陰の内に江戸へと遁走してしまった。
この事件は300百年続いた徳川政権の終焉を意味すると同時に備中松山藩が「賊軍」となるのに十分なものだった。

敵前逃亡に当たり、自らの行動が外部に漏れるのを恐れた慶喜は護衛すらほとんどつけず、着の身着のままの姿で逃走を図ったこのため松山藩を始め会津、桑名の藩兵も同行することが許されず、勝静の護衛に当たっていた熊田恰以下150名の松山藩士らもひとまず国へ帰るよう命じられた。

熊田恰(くまたあたか)、名は短芳。恰は通称、備中松山城下本丁(現高梁市川端町)に生まれた。有終館で学び、新影流の師範であった父武兵衛のもとで剣術を修めた。恰は松山藩きっての剣の達人で、「不平不満があっても決して怒ってはならない。怒りは武士の恥である」というのが口癖だった、門人は数百人に上り、いかなる場合でも平常心を失わない人格者であったと伝わる。

ある時、熊田部隊に「方谷の住居を警護せよ」という命が下った事がある。
このころ方谷は藩政改革のまっただ中、緊縮政策と屯田政策により一部の藩士にはすこぶる評判が悪く、暗殺の噂も市中を横行していた。方谷警護の人選に当たる恰に対し、ある部下がこう言った。

「君主のために馬前に戦死するのは本望だが、同じ藩士を守って暴徒に倒されたとあっては不面目この上ない」

恰はこれに対しこう言った。

「同じ藩士と思うのは誤りである。藩侯第一の宝物を守護せよと言う君主の厳命であり、たとえ死に至るともそれは御馬前の討ち死にと何ら異なることはない。」

部下はこの一言に服従し、それ以後不平を言うことはなかったという。

1862年11月、備中松山藩は長州征伐に出陣、恰は一番手隊長を命じられ玉島港から広島に向かった。恰に率いる勝静親衛隊は当時幕府軍最強といわれ、16門の新鋭大砲を装備したその姿は多くの友軍を驚かせた。

「見る人驚く板倉の大筒、小筒打ち普べ天晴れかいな」という民謡が今も伝わる、この時歌われた「五万石でも松山様は御陣羽織が虎」という軍歌もまた、今でも高梁で秋祭りなどで歌い続けられている。


【熊田恰】

 

美袋談判

慶応4年1月14日、君主不在の備中松山藩を備前岡山藩32万石を筆頭に庭瀬藩、岡田藩、浅尾藩、新見藩、足守藩など松山藩追討の新政府軍がぐるりと松山藩を取り囲んだ。鳥羽伏見の戦いにおいて藩主板倉勝静は徳川慶喜とともに遁走、備中松山藩は朝敵となった。

2本の錦の御旗を掲げる岡山藩は、備前一の切れ者といわれる岡山藩のブレインであり、高名な茶人でもある人物、家老伊木若狭を征討総督にすえ松山討伐に当たった。

新政府軍から松山藩討伐の命が下ったことを方谷が知ったのは命が下ったその翌日だった。方谷の築いてきた情報ネットワークはこの窮地にも生きていた。

「どうする・・・恭順か・・戦か・・どちらにしても、この命はあるまい・・・」

方谷は門下生であり、強力な後ろ盾であり、親友の矢吹久次郎と妻みどりにあてて遺書を書いた。

「矢吹殿、いよいよこのときが参りました・・・・色々ありましたが、ただ一つお願いがあります。娘・小雪のことを、くれぐれもお願い申し上げます・・」

そして妻みどりには「私はやっと死ぬことができる、後のことは心配しなくても大丈夫だ、先にあの世にまいる・・・」

君主不在の藩最高会議でも今後をめぐり意見は真二つに割れた。

「戦じゃ!」「戦うべきだ、新見や庭瀬も西軍にだまされているのだ、岡山藩め、薩長と組んで遂に攻め込んできおった!」松山藩藩士達の多くは近隣諸藩が偽の勅諭を奉じて攻め込んできたと判断、戦うことを望んだ。

そもそも備中松山藩と岡山藩は伝統的な犬猿の仲の藩、松山藩は譜代藩でありながら貧乏藩、16世紀の備中兵乱でも血で血を洗う争いを繰り広げた。さらに岡山藩は外様藩ではあるが32万石という大藩で微妙な力関係を保っていた、しかし方谷の藩政改革で急激に力をつけてきた松山藩は岡山藩にとっては疎ましくてしょうがない存在、両藩の仮想敵国は常に岡山藩であり備中松山藩であった。

【当時の各藩の勢力図、オレンジが松山藩、黄色が岡山藩】

1月15日、方谷は殺気立つ藩士達を制し、美袋の本陣へ謝罪使を派遣した。備前岡山藩は参謀河原源太夫が、一方の松山藩は正使に家老大石隼雄、副使に三島中洲と目付の横屋謹之助の3名がこれに対峙した。

岡山藩、参謀河原源太夫は立烏帽子に陣羽織、一方の松山藩正使の三人は麻の袴に草履姿、
平伏した大石隼雄は「我が藩は現在君主不在でございます。すみやかに備中松山城を開城し、謹慎・恭順を行います。」と完全恭順を申し出た。

これに対し、河原源太夫は謝罪書の提出を要求、草案は既に新政府軍によって作成されおりこの文章を松山藩が全面的に認めることにより松山藩の恭順を認めるという提案を持ち出してきた。

松山藩家老、金子外記の屋敷で方谷ら重臣が集まり謝罪書の草案をめぐり密議が開かれた。そして、その草案を眺める方谷の眼に衝撃が走った。

「大逆無道」 信じられない4文字が方谷の眼中に飛び込んできた。

「大逆無道・・・断じて大逆無道などではない!藩侯は朝廷に刃を向けたことなど一度もない。尊皇の志は誰よりも厚いお方である。恭順はする、しかしこの老いぼれの首に代えてもこの文字は除かせねばならん!」

日頃冷静な方谷が、周りの家臣たちがたじろぐほどの怒りを見せた。大逆無道とは「子が親を殺し、家臣が君主を殺す」という意味、確かに方谷にとってこの4文字には許し難いものがあった。しかし、方谷の尋常でない怒りにはもう一つの意味があった。

藩民を守り、藩士を守り、藩を守る、この四面楚歌の状態を無血で納めるには己の首がもっとも効果的であろう、この首くれてやる、これでやっと静かになる。
方谷は自分の死に場所をこの4文字に求めた。

 
【美袋本陣:田邊家あと】
現在田邊家はなく、跡地にはJA吉備美袋支店が立つ。


美袋本陣跡のすぐ横には八幡神社が今でも当時の姿を残している。

 

大石隼雄 涙の直訴

 

家臣らに自らの死を宣告した方谷、その後の会議はまさに紛糾した。
謹慎恭順は変わらないのだから何も腹をかっさばなくとも・・
方谷が死ぬのであれば重臣すべてが切腹するべきだ・・などなど

最終的に出た結論は「大逆無道」の4文字を「軽挙暴動」にあらためる。これが受け入れられなければ方谷が腹を切る。という物であった。金子邸の密議の結果はすぐさま美袋の松山藩謝罪史へ伝えられた。そしてその内容を見た大石、三島ら3名は青ざめた。

「松山藩は今後いかなる場合も謹慎恭順の姿勢をとる、しかるに謝罪文草案内の「大逆無道」の文字を「軽挙暴動」に改めていただきたく願い出る、もしこれが聞き入れられない場合、方谷が藩侯に対するお詫びとして腹を切る」

「何という・・・・」3人は言葉を失った。
3名の背中に冷たい汗がはしる、
「この上はなんとしてもこの4文字を改めていただけなくば・・。」
3名の覚悟は決まった、なんとしてもあらためさせる、もしかなわぬならば翁一人刃にあらず、我ら3名も伏刃の覚悟、腹は決まった、後は交渉のみ。

大石は再び備前岡山藩は参謀河原源太夫の前に平伏し願い出た。
「松山藩は既に謹慎・恭順の姿勢に入っております、もはや藩内に帝の傷害になる物はございません。ただ一つ、ただ一つお願いがございます。草案の大逆無道の文字を軽挙暴動にあらためてはいただけんでしょうか・・・この願いが聞き入られない場合、我が藩翁・山田老が藩侯に忠義し腹を切る覚悟でございます。なにとぞ、なにとぞ・・・」

すでに大石の嘆願の声は号泣とかしていた。大男がぼろぼろと涙を流し、頭を地面にすりつけて嘆願している、ついで三島、横屋も大石同様涙ながらに嘆願した。

「まぁ、頭をあげられよ。」備前藩、河原の眼にも涙が浮かんでいる。
「あなた方の言われることは承知した、しかし、この件に関しては儂ではどうにも決めかねる、総監に伺った上で通達する、・・・願い、かなうといいのぉ」
そういうと河原は席を立った。

美袋談判の内容は、すぐさま松山藩討伐総監の備前岡山藩伊木若狭の耳に伝わった、そして、しばしその返答に悩み込んだ

備前岡山藩にはジレンマがあった。あまり知られていないが、岡山藩9代藩主、池田茂政は徳川慶喜の実弟である、表向きは討幕派を名乗ってはいたが、薩長にはその存在をあやしむ気配もある。岡山藩としてはここで佐幕の筆頭である備中松山藩を血祭りに上げ名実ともに新政府軍の一翼として名乗りを上げたい。

しかし、敵はあの山田方谷である・・・伊木自身、方谷の事に関しては十分に知っている。

「山田方谷・・勝てるか・・」
何度もそうつぶやいた。普通に考えると32万石の岡山藩と5万石の備中松山藩では大人とこどもの戦いである、しかし、備中松山藩には最新式の西洋銃で武装された1600名にも及ぶ農兵隊が存在する、幕府軍最強とうたわれながらその全貌を見た物はまだいない。不気味この上ない存在である。

この農兵隊は方谷が手塩に掛けて作り出した近代的軍隊でおそらく「隊」という名を付けた軍隊としてはこれが始めてであろう。安政五(1858)年、農兵隊を視察に来た長州の久坂玄瑞が「長州、備中松山に遠く及ばず」と書いた手紙が今に残る。

もう一つの気がかりが農民一揆である。山田方谷は百姓から「神」のごとく尊敬われている、もし方谷の身に何かが起こった場合、何かの拍子で松山藩5万の民百姓が怒号の津波のごとく討伐軍の元に押し寄せてくる可能性もないとは言い切れない。

「なにも、ここで意地を張らずとも、松山藩は既に謹慎恭順を申し出ている。」
備前一の切れ者は松山藩の申し出をあっさりと認めた。
伊木若狭の老獪さはさらに光る、明治元年1月17日、備中松山城無血開城を滞りなく進め、町民以外の藩士を一時期藩内から退去処分の命を出した、ただし方谷に関しては既に隠居しているものとして「藩内への出入り自由」という特別待遇を申し出た。そのうえ備前藩の門人を次々と方谷の長瀬塾に送り込んできた。

「伊木若狭、食えぬ奴じゃ」
さすがの方谷も苦笑いを浮かべた。

新見藩丸川義三の死

松山藩への討伐命令は岡山の各藩へ通達された、この命令は「帝」の命であり、これに背くことはすなわち賊軍になると言うことである。津山や新見藩と言った松山藩の親藩も勅諭であるからには従わざるをえなかった

そして、新見藩の松山藩追討部隊の隊長に抜擢されたのが丸川義三だった。祖父は丸川松隠、4歳の時方谷を引き取り、方谷の父母死亡後もまるで我が子のように方谷を育てあげた、方谷の育ての親その人である。方谷は死ぬまで丸川松隠を尊敬してやまなかった、その3代目である義三に白羽の矢が立てられた。

「まさか、松山藩を・・山田先生を討つというのですか!!」
義三が驚きを隠せなかった、鳥羽のこと、徳川のこと、それなりにはきいていた物の、まさか自分が方谷を討つなど、全く考えられない事だった。

「そっ、それは勅諭なのですか。」繰り返し確認する義三の耳に届くのはもっとも恐れておいた現実だった。

14日、いくさ姿の義三がそこにいた。
「出発!」
義三は腹の底から絞り出すようにそう叫ぶと、総勢15名の部隊は南に向かい前進した。
通常新見から高梁(松山)に向かうには新見往来(現在の国道180号線)を南下し40キロほどで高梁市外へと到着する。義三のめざす日羽へ行くには通常ルートだと備中松山を横切ってゆかねばならない。

「こんな小部隊が松山藩農兵隊とまともに戦って勝てるわけがない。」

義三は松山のこと方谷の事をよく知っていた。義三にとって方谷は尊敬する師であり、自分のおじさんのような存在だった。文久5年、方谷が17歳の時、丸川家の隣に住んでいた新見藩士若原家16才の娘「進」と結婚し、長女「瑳奇」が生まれた。同じ頃生まれたのが義三だった。義三が3歳の時「瑳奇」が病死、その2年後に方谷は進とも離縁してしまうが、その後も方谷は義三をまるで我が子のように深く愛した。

義三が選んだルートは新見から吹屋往来を通り、松山藩のお隣の小藩成羽藩へ抜け、そこから笠岡往来をぬけ矢掛から日羽に抜けるという物だった。

18日早朝、岡山藩参謀河原源太夫の指揮下に入り、松山藩程近くの槙谷口に待機していた義三の部隊に連絡が入った。

「松山藩、降伏する 官軍完全勝利なり」

義三の肩の力が抜けた、思わず握りしめていた太刀を地面に落とした。

「誠か!・・・上様、・・今回の出陣、成功に終わりました。」
義三はつぶやいた。

そして「ひけえぃぃぃぃ」
あらん限りの力で部隊に号令を掛けると新見往来を北に前進を始めた。

新見往来を、まっすぐに松山藩を抜けると、津川というところがある、全国的にも有名な木野山神社があり、そのすぐ隣には災厄を取り除くと伝わる木野山八幡宮がある

津川を少し言ったところで義三の部下弘之介は義三がいないことに気づいた。
弘之介はあわてて部下に訊ねた。
「おい、義三様はどうした!義三様を見なかったか!」
もしや、弘之介は木野山八幡宮に走った。

そこには、誰にも介錯を受けず自刃した義三の姿があった。

介錯を受けず、最期まで苦しみながら死ぬことで、義三は方谷にわびたのだろうか。

丸川義三 享年39才

方谷が義三の死を知ったのはそれからしばらくしてのことだった。

 

玉島事件

備中松山城無血開城の責任者、松山藩筆頭家老であり岡山藩への謝罪使の正使をつとめた大石隼雄は極度の自己嫌悪にあえいでいた。自分の責任で藩を明け渡してしまった・・・
この耐え難い事実は大石の心を押しつぶした。

松山城開城の事務処理に忙殺されるさなか、鬱蒼とした表情を浮かべた大石はふらふらと奥の部屋へと消えていった。
「大石様の顔には死相が出ておる」
心配になった家臣の一人が大石を追って奥の部屋へといった瞬間、大声が一同を驚かせた。

「大石様、早まってはいけません。大石様!・大石様!ここで、ここで死んでしまっては犬死にでございます。なにとぞ、なにとぞ思いとどまり下さい!
あなたが生きることが、藩の民すべてが生きることが山田様の思いでございます。」

「えーい、はなせぇい。」

家臣に脇差しをもぎ取られるや、大石は大声で泣き崩れた。
家臣達もまたすすり泣いていた。

そのとき、ものすごい形相をして情報方の家臣が大石の元に飛び込んできた。
息を切らしながら家臣は大石に慌てた表情で耳打ちした。
その知らせを聞いた大石の表情は再び凍り付いた・・・

「なっ!なんだと!玉島に熊田隊150名が現れただと!」

熊田恰が勝静護衛の任務を解かれ、14隻の船を雇い大阪を出発したのは1月7日、途中強風に妨げられ備中松山の飛び領土である玉島に着いたのは10日後の17日、奇しくも方谷が備中松山城の無血開城を決めた翌日だった。


【柚木亭】

敗戦と10日間の大しけの船旅で熊田ら150名は心身共に疲れ切っていた。ありったけの力で玉島港についた熊田は松山藩吟味役柚木廉平宅へ、そのほかの物は分家で玉島村庄屋の柚木正兵衛宅と清滝寺へ分宿した。

鳥羽伏見の惨敗より命からがら脱出してきた熊田隊はその前日に松山城が無血開城した事など知るよしもなかった。熊田は、柚木廉平から松山藩の美袋の談判のこと、無血開城のことなど鳥羽伏見後の故郷の事を事細かく聞いた。
「そうか、松山城は無血開城されましたか、山田様のこと、だいたいの想像はついておりました。」

さらに柚木は熊田に語った。
「熊田さん、松山では藩内民家、ただの一つも火が出たという話は聞いておりません、一人の戦死者、一人の負傷者も出ておりません。」

「そうか、よかった」

熊田は満足そうにほほえんだ。

玉島は天領倉敷を挟み岡山藩を目と鼻の距離に位置する。150名もの大部隊が玉島に上陸したというニュースはすぐに岡山藩の耳にも伝わった。玉島に上陸した熊田、川田らは上陸とともに岡山藩の大部隊に取り囲まれた。藩からの謹慎命令を厳守するため、熊田は武器類を倉庫に格納し、武力行使の意志のないことを伝えた。

この時既に本丸である備中松山城は岡山藩の手に落ちている、すでに玉島で戦をする積極的理由は岡山藩、松山藩ともに持ち合わせていなかった、しかし、鳥羽伏見の残党をみすみす取り逃がしたとなると、備前岡山藩のメンツは丸つぶれとなってしまう、岡山藩としても、松山城の開城後とはいえ、熊田部隊を黙認できる状態ではなかった、そういう時代であった。

「いくさじゃ!いくさが始まる!」

玉島の住人はこの地が戦場になることに恐れおののいた、玉島の町は不安と恐怖で大混乱になった。

岡山藩はこの敗残兵の処遇をめぐり責任者数名の首を求めてきた。これに対し挙藩恭順を誓った松山藩はひたすら寛容な処置を乞うほか打つ手を持たなかった。
20日には備中松山藩 井上源権兵衛は岡山藩応接方松本巳之介と対談し、ひたすら熊田らへの寛容な処置を乞うていた。しかし岡山藩の態度はひたすら強硬な物で全くとりつく島さえない。

「万策尽きた・・・」井上はがくりと肩を落とした。

安正寺と定林寺の住職二人が行脚僧に変装し密使として熊田の元を訪れたのは1月21日、行脚僧は柚木亭に笠をおき去っていった。

熊田は密使が残していった笠を拾い上げ、緒をちぎった、笠の緒には切断して捻り織り込んだ密書が仕込まれている、松山藩の密書伝達方法である。藩よりもたらされた密書を見た熊田の覚悟は決まった。

-150名の命にかえて死ね-

 

熊田恰、柚木亭にて切腹

 

「川田さん、あなたは確か、ここ玉島の出身でしたな」
熊田が話しかけたのは川田甕江、江戸藩邸で働いていた川田もまた藩主板倉勝静と供に大坂城にいたが、敗戦を受けて熊田らと供に行動し玉島にいた。

川田甕江(かわたおうこう・1830~1896 )方谷から剛毅の剛の字を名前として与えられ、川田剛のなで知られる。方谷の門人の多くがそうであるが、川田も武士の子ではない。ただ、川田が他の多くの方谷の門人と大きく異なることは「川田は牛麓舎の門下生ではない」ということだろう。

3歳で父を、6歳で母を亡くした川田は母の実家で育てられた、幼い頃から大変な秀才だったがその身の上からか才能を鼻に掛けることのない人情家だった。幼い頃からの苦学が実を結び、28才の時に近江大溝藩の100石取りの儒学者として内定した。

幸か不幸かこの時、この才人に目をつけた人物がいる、言わずとしれた山田方谷である。
方谷は川田と同郷で歳も近い三島中洲に川田のヘッドハンティングを命じた。
なんと条件は近江大溝藩の半分の俸禄50石取りである。その後28才までの10年間江戸松山藩邸で学問を教えていた。

さらに驚くことは、川田はこの半分の俸禄の条件を快諾し、松山藩士で川田と同郷の恩師鎌田玄渓に感謝状まで出す始末。天才の行動は時として理解に苦しむが、手取り半分で松山藩士になった川田も、この条件で自信満々川田をスカウトした方谷もやはり常識人ではない。

しかし、この選択の後、人10倍くらいのさんざんな苦労を経験するが、後には文学博士の称号を受け、東京大学教授、貴族院議員、学士員会員などにも選ばれる、川田をスカウトした三島、薩摩の重野成斎と供に明治の三大文宗と称された。死後は宮中顧問官にもその名を連ね、漢文学者としての名前と、多くの著書を残した。

「川田さんにひとつ頼みたいことがある、どうやら藩侯への恩、この命をもって報いるときが参りました、ついては鎮撫使へ出す嘆願書の草案を書いてはくださらんか、あなたならば任せられる。」
熊田は川田に深々と頭を下げた、この二人、これまではほとんど面識はない、しかし、熊田は川田のことはよく知っていた。

嘆願書は程なくできあがった、その後、熊田自ら1,2カ所修正し、本文を伊藤仁右衛門に代筆させ書判を自書した。

-君主勝静公を不義に陥れ、松山藩諸士が鳥羽伏見の戦いに参加したとの疑いを受けたことは、自分一人の不調法であり、一死を持ってお詫びする。水野以下150余名の助命、よろしくお願い申し上げまする-

川田もまた熊田のことは知っていた、「不平不満があっても決して怒ってはならない。怒りは武士の恥である」熊田の口癖は遠く江戸までも聞こえていた。松山藩きっての剣の使い手、松山藩最強部隊熊田隊の隊長であり誰もが否定することのない真の侍であると・・・

1月22日午前11時、熊田の切腹は柚木亭(西爽亭)書院次の間にて執り行われた。
介錯は熊田一族きっての剣の使い手、熊田大輔、大輔の手に恰が大坂での別れ際、藩侯板倉勝静より賜った名刀正宗が握られていた。

先だって恰は大輔にこう言っていた。
「大輔、よく聞け、すぐに介錯はするな、儂が「介錯を」と言うまで待て。」
大輔は静かにうなずいた。

「お覚悟の時でございます。」
川田が低い声で熊田に声を掛けた。それ以外、何も言えなかった。何もできない自分にどうしようもないもどかしさを感じた。

「よし」
川田の言葉にそう答えると熊田はゆっくりと次の間に進んだ。
次の間には血を目立たなくする真っ赤な毛氈が惹かれている。

熊田は襟を正し、ゆっくりと毛氈の中央に正座し、そのまま東へ向かい深々と頭を下げた。江戸にいるだろう藩主勝静公への最後の別れであった。そののち両脇に並ぶ検視役と藩重臣に軽く頭をたたかれた。これから死に行く者への儀式である。

介錯の大輔が静かに恰の左手にうずくまった。恰は白い布で覆われた脇差しを握ると、おもむろに自らの左腹に突き刺し、そのまま横一文字にかっさばいた。鮮血が恰の白い着物をみるみる赤く染めてゆく、一拍の後後ろを振り返り

「大輔、介錯を・」

熊田一族一の剣の使い手、大輔の名刀正宗が一閃、恰の首は真っ赤な毛氈の上に堕ち、血柱が次の間の天井を真っ赤に染めた。

【恰の血が染めた天井】

「おてぎわ」
松山藩士神戸一郎は思わず声を上げた。その声が見守る藩士達の緊張の糸をぷつりと切った。

柚木亭のそこかしこからすすり泣きや号泣、怒号声が混ざり合った。多くの者達の慟哭の声が柚木亭をうめた。

柚木亭(現西爽亭)の近くに羽黒山というところがある、玉島の人たちはその山頂に熊田神社を造り遺刀を納めた。玉島の地を戦火から救った英雄として熊田恰は玉島市民の手によってに祀られている。

岡山藩主池田茂政は熊田の忠義に金15両と米20俵を贈った。松山藩もまた熊田の忠義に老中格を贈り米30俵を贈与した。

方谷が熊田の最後を聞いたのは長瀬の自宅だった。早馬に乗った使者は熊田の最期を事細かく方谷に伝えた。
藩民にに1戸の焼失家屋もなく、ただひとりの死傷者もなく静かに軍門に下れたことを密かな誇りとしていた方谷にとって、この思いもしなかった犠牲はどれほど悔しかったことであろうか。

「すまん、熊田、すまん、熊田、死ぬのはワシのはずだった・・」
わかっていたが、そのあまりに悲しい現実は、方谷の理性で固められた鋼の心を貫いた。
人前では泣かぬと言われた方谷が、人目をはばからず泣いた。


【道源寺内にある熊田恰の墓】


【高梁市、八重籬神社内にある熊田神社】

西爽亭・写真とアクセス

江戸時代、柚木家は玉島の大庄屋で、備中松山藩(現在の高梁市)から奉行格の待遇を受けていた。西爽亭は、藩主の板倉侯が玉島を巡回する折りに宿泊場所にした建物で、江戸中期の庄屋建築の遺構をよく残している。海運で栄えた玉島港の南東の山麓に建っこの建物は、主屋に付属する座敷棟で、木造平屋建て、本瓦葺きになっている。

天明年間(1781~1789)に建築されたと伝えられ、備後国神辺(現在の広島県神辺町)の儒学者・菅茶山(かんちゃざん)によって「西爽亭」と名付けられた。
西爽亭を構成する座敷棟・御成門・茶室及び庭園の中で、御成門・式台玄関が、建築上特に優れている。

参考資料:倉敷市教育委員会文化財保護課発行冊子

御成門(おなりもん)

柚木亭の入り口

本瓦葺きの薬医門形式で、屋根の四隅に意匠の凝った鬼瓦を乗せている。

西爽亭を示す看板


西爽亭を示す看板(これは意外と見落とす)

「倉敷の玉島という街の一角に西爽亭という幕末維新の史跡がある。

ここは備中松山藩(現高梁市)の飛び地で、鳥羽伏見の戦いで賊軍となった松山藩士が多数故郷を目指して引き上げてきた。
藩老熊田恰の率いる約160名であったが、新政府側に包囲され熊田は自身の命と引き替えに部下の安堵を願う。この結果、両者の戦いも回避された。(草村氏レポート)

次の間その1

取り次ぎの間から見た自刃の部屋(次の間)

取次の間(とりつぎのま)
広さ6畳の部屋。この部屋の右手にある奥行半間・幅2問の棚も、西爽亭の特色をよく表している。

次の間その2

お成りの間より見た次の間

次の間(つぎのま)
比較的天井が高く、ゆったりとした数寄屋風の書院。慶応4年(1868)、この部屋で備中松山藩の家老・熊田恰が自刃し、幕末の戦火から玉島を救った。広さ10畳の部屋

次の間その3

熊田恰自刃の部屋(次の間)

隣が上の間(かみのま)
比較的天井が高く、ゆったりとした数寄屋風の書院広さ10畳の部屋。床・違棚・付書院が備わっている。この部屋に、備中松山藩の藩主板倉公が宿泊した。

熊田恰の血痕

天井にある血痕

彼の自刃した場所こそが、この西爽亭の次の間です。
天井に残る血痕の跡。この場に立った自分の身体に命の大切さと日本人の原点を見たような気がした。山田方谷・原田亀太郎・熊田恰。今一度、備中のいや我が日本の偉人を見直そう。
(草村氏レポート)

熊田恰の血痕その2


自刃の(次の)間の天井にある熊田恰の血痕を指す草村氏。

熊田自刃の部屋の天井に残る血痕が何故か白でしたが、後日西爽亭に確認しますと「あまり生々しいので公開の前に拭かれ」たそうです。
(草村氏レポート 撮影:草村千茶)

高梁の熊田神社碑の拓本


高梁の熊田神社碑の拓本
(お成りの間=上の間にかかっていた)

熊田神社

玉島の羽黒神社内摂社の熊田神社

熊田の写真


西爽亭隣にある生涯学習施設にある熊田の写真

嘆願書下書き


嘆願書下書きなど陳列コーナー

嘆願書下書き

助命嘆願書下書き(清書は政府軍に出したとか)

式台玄関


式台玄関(しきだいげんかん)
入母屋の屋根には、凸型に緩やかに傾斜したむくりのある唐破風様の妻飾がついている。幅2間。

写真は平成16年10月10日の西爽亭管理の方(4人で交代されているとか)と草村氏。

下書きを側に置いて自刃したために血痕が残ったそうです。
命日には西爽亭持ち主の柚木(ゆのき)家の当主が高梁の墓所である道源寺に出向かれているそうです。(撮影:草村千茶)

西爽亭へのアクセス

所在地 〒713-8102 倉敷市玉島3丁目8-25
電話 086-522-0151
開館時間 午前9時~午後5時
休館日 毎週月曜日・祝日・年末年始(12/28~1/4)・その他
交通手段
入館料 西爽亭部分  :無料
生涯学習施設:有料(下記の表をご覧ください)

※使用のきまり
指定場所以外での喫煙はできません(西爽亭部分は全面禁煙・火気厳禁です)。

次のような場合は入館や使用を制限することがあります。
1)公の秩序または善良の風俗を乱すおそれがあるとき。
2)施設または展示物等を損傷するおそれがあるとき。
3)営利を目的としているとき。
4)竹木の伐採・損傷や植物の採集等をするおそれがあるとき。
5)広告物や貼り紙等をするおそれがあるとき。
6)特別な設備または造作をするおそれがあるとき。
7)その他、施設の管理上支障があるとき。

倉敷・玉島の歴史

倉敷といえば美観地区や大原美術館で有名な岡山県を代表する観光地です。雑誌やテレビや度々取り上げられてきた白壁やアイビースクエアの蔦の外観など、風情ある町として知られています。

そんな倉敷ですが、町の歴史には備中松山が深く入り込んでいます。倉敷が歴史的に登場するのは900年代、藤原純友が瀬戸内海で乱を起こしたあたりからです。その後も何度か戦の場面として登場しますが、この当時、倉敷は小さな海沿いの町に過ぎませんでした。

1550年、備中松山の藩主が庄氏の頃、松山川(高梁川)の下流川口に当たる玉島湊と備中松山間の舟運が開かれました。そして1600年、天下分け目の合戦、関ヶ原の戦終了後、備中兵乱によって滅ぼされた三村氏に替わって備中の国(備中松山を含む)に備中国奉行として小堀正次が就任その息子、小堀遠州とともに備中松山城を拠点とし高梁川の高瀬舟での輸送の基礎を築きました。

江戸時代になり幕藩体制が確立して最初に松山藩主となったのは池田長幸でした。池田氏は外様大名で、1617年、鳥取から六万五千石で松山の地に移ってきました。家来とその家族を合わせて約三千人程度の家臣団を引き連れての転封であり、小堀氏の町づくりの基礎の上にたって、城下町の建設が活発に始められました。

また、消費都市としての松山城下への物資輸送をするため高瀬舟の管理運営に当たる問屋を松山と玉島に設けたのも池田氏で、高梁川の下流には三角洲が発達し新田開発の絶好の条件であったため、池田長幸も早くから目をつけ、1624年、玉島長尾内新田十町歩を開発しました。

1642年、倉敷村が幕府直轄の天領となり現在のアイビースクエアの場所に倉敷代官所が建設されました、水谷勝隆が成羽から備中松山城主となり、柏島・乙島・黒崎などの村を支配する さらに、1643年には松山藩が玉島湊問屋の手形を発給するなど高瀬舟輸送のアドバンテージをとり海運はますます盛んとなってゆきます。

1652年、ついに高梁川河口から新見にいたる高瀬舟の航路が全通、高梁川の高瀬物流の基礎が完成しました。後の方谷改革でもこの高瀬舟の物流は非常に重要な要素の一つとなります。

1659年、その後の備中松山藩の町建設の基礎を気づいた水谷氏の時代となります。松山藩主水谷勝隆は玉島湊を築き高瀬通しの工事をはじめます。

時代は飛んで1868年、大政奉還とその後の大瀬い復古の対号令、により徳川幕府は失墜、新政府軍は倉敷代官所を没収、高梁川以東は備前藩(岡山)、以西は安芸藩(広島)が管理する事となりました。


アイビースクエア内にある代官所の配置図

SpecialThanks
写真撮影:草村克彦氏