11月1日に長崎で行われた戊辰戦争研究会長崎集結で山田方谷について発表されたおなさんから発表資料と解説をいただきました。是非マニアックスで紹介させてほしいと言ったところ、快くOKしていただきました。

ありがとうございます。
ということで早速発表させていただきます。

みなさん、こんにちは、戊辰戦争研究会の小名です。少し、自己紹介をさせていただきますと、1963年に大阪で生まれ、学生時代までは、大阪に住んでいました。就職で上京し、現在は、埼玉に在住しています。

仕事は、普通の会社員で、自動車やバイクだけではなく、ロボットのアシモや航空機のホンダジェット作っている本田技研工業に勤めています。幕末に興味を持ったのは、かれこれ30年近く前になりますが、大河ドラマ「花神」を観てからです。

今日は、「経世済民を貫いた財政家・山田方谷」というテーマで発表させていただきます。また、長崎といえば、坂本龍馬ですので、方谷の弟子、河井継之助と比較、司馬さん語録など披露しながら、話をすすめていきたいと思います。

まぁ、研究発表と言うほどの内容ではありませんが、聴いていただけると幸いです

内容は、以下の通りです。堅苦しい発表ではないので、みなさん気軽にお聞きください。

なぜ、今日、山田方谷を取り上げたかと言いますと、長崎市長の田上市長が、山田方谷のファンだからです。左上の写真が、みなさんご存知の田上市長です。

当初、長崎市長との対談だったのですが、市長は、忙しくスケジュールがあわかったため残念ながら、対談ではなく、私の発表のみとなりました。今日は、山田方谷のことを知っていただき、市長のものの考え方がわかる手助けになればいいなぁと思っています。

山田方谷に詳しい作家と言えば、真ん中の写真の堂門冬二さんでしょう。

著作には、改革者にスポットをあてた「上杉鷹山」今日発表する「山田方谷・河井継之助」などがあります。今日、東京から、全日空で来たのですが。

全日空の前社長大橋洋治さんも山田方谷を尊敬している企業家の一人です。右下の写真の方です。6期無配のANAを復配させるため、大橋社長は、いつも、山田方谷ならどう考えていたか。

退路を断った方谷のように自分も退路を断って全日空を立て直すと言う意気込みで取り組んだそうです。

昨今、企業改革、国・地方の財政改革で、山田方谷は、企業経営者・政治家の間で「静かなブーム」を巻き起こしています。

ちょっと古い新聞ですが、2004年2月21日のサンケイ新聞に山田方谷の記事が載りました。要約すると、「構造改革、財政改革など遅々と進まない改革の中で、幕末の陽明学者・山田方谷が『改革の天才』として注目され、企業経営者の間に徐々に浸透していると言う。

方谷は、備中松山藩の重職に抜擢され、藩政改革の断行によって十万両の借財を8年で返済。返済時には、逆に、十万両の蓄財をした人物。方谷が言った『改革は手法や数字でできるものではなく、練られた哲学が必要だ』の言葉を多くの経営者が重く受けとめている。」と記事にあります。

作家の司馬さんも、方谷には、関心を持っていたようですので、紹介します。

右下の人物像が、山田方谷です。方谷は、明治まで存命しますが、残念ながら、写真はありません。

備中松山藩は、幕府最後の筆頭老中・板倉勝静公を藩主とする岡山5万石の譜代藩です。板倉勝静は、永井尚志(なおむね)と共に幕府側で、大政奉還に関わった人物です。

方谷の偉さについて、司馬先生の方谷の地元でのエピソードがあります。司馬さんは、「峠」の執筆中取材で、今の備中高梁、当時の備中松山藩を訪れています。

地元の方が、司馬さんに、「河井継之助の小説『峠』を書かれるのであれば、山田方谷の小説も書かれてはいかがですか?」と言ったところ司馬さんは、「方谷は小説にはなりにくい人物だなぁ」。地元の人が「どうしてですか」と問うと、司馬さんは少し考えて「うーん、どうも、方谷は偉すぎる。偉すぎて小説にならない。」と言ったそうです。

司馬さんの方谷の人物を評する一面はないでしょうか。

山田方谷が仕えた板倉家備中松山藩5万石は、どこにあるかと言いますと、今の岡山県高梁市です。地図の星印の位置です。松山と言う地名は、明治以後、愛媛県の松山と区別するため、備中高梁と改名し、今は高梁市と言う名になっています。昨今の市町村合併により、高梁市も以前よりは、大きくなっています。

高梁市は、岡山市の西、倉敷市から、JR伯備線に乗り、約30分ほど中国山地に入ったところです。松山城は、今では、現存12天守閣の一つという貴重なお城となっています。

ここで、方谷の年譜を紹介します。
方谷は、備中松山藩の参政になります。参政とは家老職に相当します。また、藩主勝静公が幕府老中になると方谷は老中顧問にもなります。しかし、方谷は、武士の生まれではなく、農民の子として生まれています。

1805年文化2年に方谷は生まれます。1827年に西郷隆盛が、1835年に坂本龍馬が生まれています。幕末の志士よりも一世代早い生まれです。1834年天保5年方谷30歳のとき、江戸の佐藤一斎の塾に入門します。佐藤塾には、当時、佐久間象山(ぞうざん)が入門していました。1849年嘉永2年方谷45歳のとき、養子勝静公が藩主になります。

このとき、松山藩は、負債10万両をかかえおり、藩内は武士も農民も貧乏のどん底にありました。方谷は元締役兼吟味役となり藩の中枢を担い、藩政改革に着手します。安政5年には、久坂玄瑞が、翌年には、河井継之助が来遊しています。

藩主勝静公は幕末筆頭老中になり、勝静公とともに、方谷は、幕末維新の動乱に巻き込まれてゆきます。方谷は、陽明学者ではめずらしく天寿を全うし1877年・明治10年に73歳でなくなります。

1834年方谷30歳の時、佐藤一斎の塾に入門しています。

佐藤一斎は、当時、江戸では有名な儒学者です。佐藤一斎の塾生で有名な人物に、横井小楠、佐久間象山(ぞうざん)がいます。一斎の塾では、佐藤の二傑と言われたのが、山田方谷と佐久間象山です。象山が塾に入ったのは、方谷よりも2ヶ月早く、方谷にとって象山は、兄弟子になります。

しかし、方谷は、象山を追い抜き、塾頭になります。横井小楠は、福井藩で、坂本龍馬と交流があった人で、坂本龍馬に大きな影響を与えた人物です。方谷と横井小楠とは、佐藤塾時代には、接点はないようでが、幕末、この二人は、幕府の重役の顧問として会っています。

横井小楠は、政事総裁職・松平春嶽のブレーンに、山田方谷は、筆頭老中・板倉勝静のブレーンになり、幕末・幕府内部の裏方で活躍します。簡単な系譜を紹介しますと、小楠は坂本龍馬の、象山は吉田松陰に、そして、方谷は河井継之助に影響与えています。

いままでは、方谷の人物評や年譜、関連した人物の紹介でしたが、では、実際には、方谷は、どのようなことをしたのかを話します。

幕末、山田方谷は、備中松山藩の藩政改革で当時有名になりましたが、ここでは、藩政改革で有名な上杉鷹山と比較します。方谷が、元締役兼吟味役になったとき、松山藩の財政状況は、負債が、10万両にも達していました。街道の籠かきからでさえ、松山藩の籠はかくなと陰口を言われ、財政は極度に悪化していました。

その備中松山藩5万石(実高は2万石)の借金10万両をわずか、8年で返還したのです。山田方谷の改革は、上杉鷹山と比べると、負債こそ、1/2の10万両ですが、収入は、表高さえ、1/3の5万石。これに対して、返却期間は、1/10の8年、負債返却時の余剰金は20倍の10万両となっています。鷹山は、ケネディアメリカ大統領が尊敬する日本人ということで有名になっていますが、この表をみるといかに方谷が鷹山を上回っているか一目瞭然です。

維新後、薩摩の大久保利通も山田方谷に目をつけます。戊辰戦争の内乱で、明治新政府の財布は、空同然になります。

新政府の参議の中心人物、大久保利通は、方谷の財政手腕をみのがすはずはありません。大久保利通は、何度も方谷に、新政府の会計局の就任を要請しています。会計局とは、今の財務大臣にあたります。

しかし、方谷は、高齢を理由に断ります。実際には、高齢だけの理由だけではなく、藩主板倉勝静公を罪人として扱った新政府には仕える気にはならなかったのが真相のようです。以後、方谷は、閑谷(しずたに)学校の再建など、教育に専念し、歴史の表舞台からは去り、歴史の片隅に埋れてしまいます。

 

方谷の財政改革の考え方を紹介しますと、方谷の偉さは経済問題を「銭勘定だけでは解決できない」と言うことを見抜いたことでしょう。財政改革を実現するためには「思想・哲学の領域まで踏み込まないと財政改革はできない」と言っています。

現代文に意訳して方谷の自問を言いますと、「利潤追求について、今日(こんにち)ほど熱心に徹底して追及している時代はない。それなのに我が国の困窮度合いは、歴史的にみて今ほどひどい状況はない。支出を減らし税金を重くして財政の状況を良くしようと努力を重ねてきたが悪化の一途をたどっている。

一体全体本当の原因は何なのだろう。」これは、現代の状況とまったく同じです。方谷は、経済の本旨の「経世済民」を貫きとおしました。そして、「義」を重んじないかぎり財政改革はできないと考えたのです。方谷、32歳のとき自分の考えを「理財論」「擬対策」にまとめました。今回は、理財論の有名な言葉を紹介します。

理財論の中で、「義を明らかにして、利を計らず。利は義の和」と書いています。これは、私のすきな方谷の有名な言葉です。

利益を得ることを目的とせず「善をもって、人としてどう生きるか、民の幸福のために藩をどうすべきか」を目的にすべきだと言っています。「そうすれば、おのずと利益がついて来る」とも言っています。義とは、今の言い方をすれば、「何のために改革するのか、将来のビジョン」を指します。

なんども言いますが、ビジョンと言っても、「世中のため、人のためでなければ、やがて、破綻すること」を方谷は語っています。今、アメリカ発の金融不安が広がっていますが、これなど、自分だけ儲ければよいと言う考えが行き詰った証拠かもしれません。

理財論では、方谷のもう一つ有名な言葉が書いてあります。「総じて善く天下を制する者は、事の外にたちて、事の内に屈せず」。これは、大所高所に立って物事を見よ、目先の事に惑わされてはいけない。方谷は、財政については、「財の外に立ちて、財の内に屈せず」と言い換えて財政再建にあたります。

数字の増減ばかりに気を取られ、目先の利益を追うと、物事の本質を見失うという意味です。企業や個人、国、地方自治団体が負債を抱え始めると、物事の本質を考えずに場当たり的な手当をすると、ますます事が悪化すると言う意味です。わかってはいながら、なかなか行えないのが実情ですが、方谷はこれを強く戒めています。

繰り返し何度も言いますが、方谷は、経済問題を「銭勘定だけでは解決できない」と言っています。 「義を重んじて、人としてどう生きるか」を明確にしないといけないことを強調しています。私は、このことは非常に重要だと思います。

藩政改革のために、方谷は、先ほど紹介した「理財論・擬対策」をもとに、6つの政策を実施しています。産業振興は、松山藩の北の山脈には、良質の鉄が採取ができ、これを利用して、三本刃の備中鍬を生産、大阪の商人ではなく、江戸で直接販売しています。負債整理は方谷の「義」の真髄をあらわす政策です。「大義を守るためには、内実を暴露するのはやむおえない。」と言い、方谷は、大坂商人に、表高5万石であるが内実は、2万石にも満たない粉飾決算を明らかにしています。

大坂商人に負債返済のため利息の棚上げを申し入れています。方谷は、元金の返済のための政策を大坂商人に説明し、間違いなく元金を返済できるとわかった商人たちは、方谷の申し入れをうけました。幕末時、方谷を有名にしたのが、藩札刷新政策です。経済の血液である藩札の信用がなければ経済発展は望めないと考えた方谷は、産業振興で得た利益を、藩の金庫が空になるのを恐れずすべての藩札を回収し、二度と藩の持ち金以上に藩札を発行しないことを見せ付けるため、高梁川の川原で、多くの藩民の前で、旧札をすべて焼却しました。

そして、一気に新札を普及させました。これ以後、松山藩の藩札は他藩にまで信用される藩札となっています。その他、上下節約政策、教育改革、軍政改革を実施しています。

 

今後の研究の課題となるのが、幕政にどれほど、方谷が関わったかです。備中松山藩での藩政改革の資料は数多くあるのですが、板倉勝静公が老中になると、方谷は老中顧問になります。そのあたりの資料文献が少なく不明な点が多くあります。

「続再夢日記」には、「文久2年閏8月1日、老中板倉勝静公 横井小楠の説を拝聴する。方谷同席す。」「文久2年9月11日、政事総裁職松平春嶽公 山田方谷に時事に関する意見を尋ねる。」と言うことが書かれています。小楠と方谷は、基本的考えが違っており、幕政について、しばしば対立したそうです。

小楠は、「幕府は、攘夷・開国について、朝廷の勅命に背いているので謝罪せよ」と言う立場でしたが、方谷は、「幕府は、朝廷から政権を委ねられており、外交問題でも朝廷の勅許を得る必要はない」と言う立場でした。方谷は、幕府を擁護すると言うより、幕府、朝廷ともに筋を通せと言う意味です。小楠は、春嶽のスタッフという責任のない立場なので自由に発言できましたが、方谷は、松山藩の家老と言うライン長であったため、筋やけじめを重んじています。

 

方谷には、三島中洲など多くの弟子がいます。また、来遊者としては、久坂玄瑞や会津藩の秋月悌次朗(明治以後、新政府に出仕)がいます。しかし、やはり弟子で有名なのは、越後長岡藩の河井継之助でしょう。安政6年に、弟子入りし、約半年間、方谷の元で継之助は、松山藩の藩政改革をつぶさに見聞しています。作家司馬遼太郎氏の「峠」を読んで河井継之助を知った方も多いと思います。

また、山田方谷の名を「峠」で知った方がほとんどだと思います。河井継之助については、継之助が去ったあと、方谷は、内弟子に「大変な男を弟子に持ってしまった」と語っています。継之助は、長岡にもどると方谷の元で学んだ改革を自藩で実践します。継之助は、最後には長岡藩・家老上席になります。

しかし、以外に早く、徳川幕府が倒れたため継之助の想いであった長岡藩武装中立の夢は薩長軍により潰えました。方谷は、最後まで「義」を貫き徹し戦争になったことには、批判していません。

(さて、読者には、お詫びをしないといけません。主催者より、坂本龍馬、河井継之助、司馬遼太郎さんなど、なじみの人たちのことも話してほしいとの要請があり、話がとっぴな方向にすすみますが、お許しください。)

河井継之助は、安政六年に、長崎にも訪問しています。会津藩士の秋月悌次朗や、長崎海軍伝習所にいた幕臣矢田堀景蔵にも会っています。

ここで、すこし横道にそれてみましょう。さて、長崎といえば亀山社中、海援隊の坂本龍馬でしょう。作家の司馬遼太郎は、「竜馬がゆく」で坂本龍馬を、「峠」で河井継之助を書いていますので、この二人を比較しながら、幕末の人物や作家司馬遼太郎がなぜ、無名だった幕末のこの二人にスポットを当てていったかを考えてみましょう。

 

ここで、継之助と龍馬をあれこれ比較してみましょう。まず、生誕地ですが、龍馬は温暖の地、南国の土佐です。土佐藩は外様の24万石の大藩です。継之助はと言うと豪雪の地、北国(ほっこく)、越後長岡です。長岡藩は、譜代の7万4千石の小藩です。終焉の地は、どうでしょう。龍馬は大都会の京都で暗殺されます。継之助は、片田舎の只見で戦(いくさ)の傷がもとで亡くなります。

龍馬は、当然、暗殺で亡くなることは知りませんから死の直前まで、死のことを考えていなかったと思います。一方、継之助は言うと、戦の傷で、もう自分の体は何日も持たない。自分の遺体の処理まで考えていたと言われています。死後、龍馬も継之助も記念館と碑が造られますが、これも非常に対象的です。龍馬は、生誕の地、高知に立派な坂本龍馬記念館あります。

しかし、終焉の地、京都には、「坂本龍馬遭難の碑」があるだけです。ところが、継之助はこれとは反対で、長岡市には、幼少のころ育った家の場所には、「河井継之助邸跡の碑」があるだけですが、終焉の地、只見・会津塩沢には、継之助終焉の間を保存してある河井継之助記念館があります。ただ、3年前に、長岡にも河井継之助記念館ができたので、すこし様子が変わってきました。

 

次に、人気などはどうでしょうか?坂本龍馬は、全国的に、大人気で、地元では英雄ですね。継之助はどうでしょう。残念ながら、つい最近まで、長岡市では継之助は不評でした。だいたい、長岡市民でさえ龍馬を知っていても、河井継之助を知らない人は多いのではないでしょうか。

さて、作家の司馬遼太郎氏は、坂本龍馬を「竜馬がゆく」で書いています。この作品は、司馬ファンや普通の読者がよく読む小説です。一般の方の好きな司馬作品でのアンケートを取ると、かならず1位か2位にランクされます。しかし、河井継之助が主人公の「峠」は、10位にも入りません。ところが、熱烈な司馬ファンの集まりである司馬遼太郎記念館の友の会のアンケートだと、「峠」は、5位にランクされます。幕末ものでは、「竜馬がゆく」の次にランクされ、土方歳三を描いた「燃えよ剣」より上位に位置します。

「峠」は、そういう意味で、玄人好きの小説と言えるかもしれません。

司馬さんの評価も、対象的です。「竜馬がゆく」の最後には、「その使命を終えると惜しげもなく天に召された」とあり、司馬遼太郎さんが書いた継之助の初期作品「英雄児」では、「英雄は、時と置き所を誤ると災いをもたらす」と書いてあります。しかしながら、司馬遼太郎さんは、「峠」を書くころからは継之助のことの考えも変わったようで、継之助を批判するようなことは言わなくなりました。

 

司馬遼太郎のエッセイ・手堀日本史のなかで、ご自身のお好きな作品はで、司馬遼太郎氏は、この対称的な二人の人物の小説を「日本人について考え書いた愛着のある作品である。」と書いています。司馬遼太郎さんがなくなった後、司馬遼太郎記念館が造られ、司馬さんの義理の弟の上村洋行さんが記念館の館長をしておれれます。

私は、司馬遼太郎記念館の友の会会員でもあり、上村館長の講演が聞く機会がありました。竜馬がゆく、峠の作品についてのお話も聞くことがきました。「なぜ、司馬さんがこの二人の作品を書いたか?」について、上村館長は、「竜馬がゆくでは、人間の魅力が、人を動かし組織を動かし、国を動かした。こういう人物を書いてみたかった。」(司馬遼太郎記念館 上村館長 2005年5月 友の会交流ツァー講演)。それに対して「峠で、なぜ、司馬さんが、河井継之助を取り上げたかについては、本当のところはよく解からない。」(司馬遼太郎記念館 上村館長 2007年12月 長岡講演)と言っておられます。

 

次の時代が見えていたという人物では、坂本龍馬が有名です。司馬さんは、「竜馬がゆく」のなかで、竜馬が陸奥宗光に向かって「刀がなくても、食っていけるのは、俺とお前だけだなぁ」と書いてある場面があります。これは、説明するまでもありませんが、刀を振りかざしているだけで食べていける武士の時代は、もう終わり、次の時代では、商売や貿易ができるような人物でないと稼げないという意味です。司馬さんは、この二人、竜馬と宗光が次の時代が見えていることを言いたかったに違いありません。

 

さて、幕末、次の時代が見えていたのは、坂本龍馬と陸奥宗光だけでしょうか?司馬さんは、「街道をゆく-台湾紀行-」の後書きで、河井継之助と山田方谷との会話を書いています。「継之助が方谷の元をさり、長岡に帰るときに、師匠の方谷に向かって、『方谷先生なら、三井の番頭が務まりますね』と師を誉めた。ほめられた方谷も喜んだ。侍の世が終わって町人の世が来ることを江戸末期に岡山の山中(さんちゅう)で子弟が話しあった」と書いています。

司馬さんは、この二人が次の時代は、商人の世になることを見ぬいていたことを言いたかったと思っています。そして、経済感覚で人物を評をしている二人の姿が目に浮かびます。

 

街道をゆく「台湾紀行」の最後で、司馬さんは、こうも書いています。「この時代(幕末)、河井継之助は新しい国家の青写真を持った唯一にちかい-坂本竜馬も持ちましたが-唯一に近い人物だったのに歴史は、彼を忘れてしまっている。」と書いている。しかし、二人の立場が、まったく別の方向へすすめてしまいます。先ほど紹介した、手堀り日本史や小説のなかに、司馬さんに言うには、龍馬は、見る目を持って世界が見える場所、長崎に、亀山社中を置いた。

武市半平太は土佐藩をなんとか動かそうとしますが、それを見た龍馬は、半平太に、「武市、藩などどうでもいいではないか」と言います。そして、藩外に株式会社を作ります。かれは、郷士であり、藩への帰属意識が薄かったからかも知れません。逆に、河井継之助は、見る目を持っていたのに、見えない場所に、自分をもっていかざるおえなかった。小説の中、江戸で、福沢諭吉と会話で、福沢諭吉は、河井に「あなたを長岡藩士にしておくには、もったいない」と言うと、河井は、首を振り「長岡藩士であると言うことが、自分の立場である。」と言い、彼は、長岡藩そのものを株式会社にしようとした。

 

さて話を山田方谷に戻します。山田方谷と坂本龍馬と接点は、残念ながら記録には、残っていません。しかし、大政奉還については、間接的に、二人は関係があったようです。大政奉還の建白書は、坂本龍馬の船中八策をもとに、後藤象二郎→山内容堂→板倉勝静から、将軍慶喜に届けられています。さて、二条城で読み上げられた大政奉還の上奏文は、将軍慶喜から依頼を受けた永井尚志(なおゆき)が起草したと言うことが一般には知られています。

しかし、ここに、一つの仮説があります。上奏文の草案を方谷が書き、山田方谷→板倉勝静→永井尚志(なおゆき)を経て、徳川慶喜に届けられたという説です。大政奉還については、永井尚志(なおゆき)、板倉勝静ともに、慶喜に受け入れるようすすめていることから、板倉勝静を補佐した山田方谷が関与していることは、容易に想像できます。

 

慶応3年 10月16日、上奏文は、10万石以上の大名に配られたが、ほぼ同じ文書を16日に、方谷が門弟に密書として出しています。密書の末文に、書かれていることを要約すると「13日、言い渡された書面の趣旨を天皇に申し上げたところ、昨15日に別紙のとおり御所からだされたのでお知らせします。」と言う意味です。方谷研究の第一人者・矢吹邦彦氏は、上奏文の原案を書いたのは方谷ではないかと調査しています。方谷は、当然、老中顧問として幕府の終焉を危惧していたに違いなく、できれば、平和的に新時代に移ることを望んでいたに違いありません。もし、これが事実であれば、大政奉還について、方谷は、龍馬につぐ功労者であることになります。

 

山田方谷から。矢吹久二朗宛ての密書の内容です。赤線のところに「従来の旧習を改め政権を朝廷に帰し広く天下の公議を尽くし」と書いてあり、龍馬の考えと同じ内容です。

 

こちらは、慶喜が朝廷に差し出した上奏文です。多少、手は加えられているもののほぼ同じ内容です。矢吹氏は方谷の草案を板倉勝静から渡された永井尚志(なおゆき)が、へりくだった文章に書き改めたと推測しています。

 

最後に今日の発表のために参考とした文献を紹介しておきます。司馬さんの小説、エッセイは、あまりにも有名なので省いていますが、もし、今日の発表で、山田方谷のことに興味をもちましたら、ぜひ読んでみてください。入門書としては、「山田方谷」童門冬二著がいいでしょう。

 

今日は、長崎龍馬会、長崎史談会、さるく観光課など多くの龍馬ファン、幕末ファンが来ておられますが、今日の発表を聞いて、ぜひ、司馬遼太郎の「峠」を読んで、河井継之助、山田方谷に興味をもっていただきたいと思います。今日は、このあともすばらしい講演、パネルディスカッショウンが続きますが、私としては、経営者の方には、山田方谷の「義を明らかにして、利を計らず利は義の和」と言う言葉を、また、その他の方には、「事の外に立ちて、事の内に屈せず」と言うことばを、記憶にとどめていてくだされればと思います。おそらく、長崎市田上市長に、山田方谷のことを聞く機会があれば、この二つの言葉を言われるに違いありません。約30分の発表でしたが、御清聴ありがとうございます。最後に、わたくしごとですが、私が勤務している会社、ホンダ製品もよろしくお願いします。アマチュア歴史家の発表ですから、詳しいことは、なかなかお答えできませんが、時間があるようでしたら、何かご質問をお受けします。