経世済民を貫いた財政家・山田方谷その9(全10回)
11月1日に長崎で行われた戊辰戦争研究会長崎集結で山田方谷について発表されたおなさんから発表資料と解説をいただきました。是非マニアックスで紹介させてほしいと言ったところ、快くOKしていただきました。
ありがとうございます。

 慶応3年 10月16日、上奏文は、10万石以上の大名に配られたが、ほぼ同じ文書を16日に、方谷が門弟に密書として出しています。密書の末文に、書かれていることを要約すると「13日、言い渡された書面の趣旨を天皇に申し上げたところ、昨15日に別紙のとおり御所からだされたのでお知らせします。」と言う意味です。方谷研究の第一人者・矢吹邦彦氏は、上奏文の原案を書いたのは方谷ではないかと調査しています。方谷は、当然、老中顧問として幕府の終焉を危惧していたに違いなく、できれば、平和的に新時代に移ることを望んでいたに違いありません。もし、これが事実であれば、大政奉還について、方谷は、龍馬につぐ功労者であることになります。

 山田方谷から。矢吹久二朗宛ての密書の内容です。赤線のところに「従来の旧習を改め政権を朝廷に帰し広く天下の公議を尽くし」と書いてあり、龍馬の考えと同じ内容です。

 こちらは、慶喜が朝廷に差し出した上奏文です。多少、手は加えられているもののほぼ同じ内容です。矢吹氏は方谷の草案を板倉勝静から渡された永井尚志(なおゆき)が、へりくだった文章に書き改めたと推測しています。