経世済民を貫いた財政家・山田方谷その8(全10回)
11月1日に長崎で行われた戊辰戦争研究会長崎集結で山田方谷について発表されたおなさんから発表資料と解説をいただきました。是非マニアックスで紹介させてほしいと言ったところ、快くOKしていただきました。
ありがとうございます。

 さて、幕末、次の時代が見えていたのは、坂本龍馬と陸奥宗光だけでしょうか?司馬さんは、「街道をゆく-台湾紀行-」の後書きで、河井継之助と山田方谷との会話を書いています。「継之助が方谷の元をさり、長岡に帰るときに、師匠の方谷に向かって、『方谷先生なら、三井の番頭が務まりますね』と師を誉めた。ほめられた方谷も喜んだ。侍の世が終わって町人の世が来ることを江戸末期に岡山の山中(さんちゅう)で子弟が話しあった」と書いています。
司馬さんは、この二人が次の時代は、商人の世になることを見ぬいていたことを言いたかったと思っています。そして、経済感覚で人物を評をしている二人の姿が目に浮かびます。

 街道をゆく「台湾紀行」の最後で、司馬さんは、こうも書いています。「この時代(幕末)、河井継之助は新しい国家の青写真を持った唯一にちかい-坂本竜馬も持ちましたが-唯一に近い人物だったのに歴史は、彼を忘れてしまっている。」と書いている。しかし、二人の立場が、まったく別の方向へすすめてしまいます。先ほど紹介した、手堀り日本史や小説のなかに、司馬さんに言うには、龍馬は、見る目を持って世界が見える場所、長崎に、亀山社中を置いた。
武市半平太は土佐藩をなんとか動かそうとしますが、それを見た龍馬は、半平太に、「武市、藩などどうでもいいではないか」と言います。そして、藩外に株式会社を作ります。かれは、郷士であり、藩への帰属意識が薄かったからかも知れません。逆に、河井継之助は、見る目を持っていたのに、見えない場所に、自分をもっていかざるおえなかった。小説の中、江戸で、福沢諭吉と会話で、福沢諭吉は、河井に「あなたを長岡藩士にしておくには、もったいない」と言うと、河井は、首を振り「長岡藩士であると言うことが、自分の立場である。」と言い、彼は、長岡藩そのものを株式会社にしようとした。

さて話を山田方谷に戻します。山田方谷と坂本龍馬と接点は、残念ながら記録には、残っていません。しかし、大政奉還については、間接的に、二人は関係があったようです。大政奉還の建白書は、坂本龍馬の船中八策をもとに、後藤象二郎→山内容堂→板倉勝静から、将軍慶喜に届けられています。さて、二条城で読み上げられた大政奉還の上奏文は、将軍慶喜から依頼を受けた永井尚志(なおゆき)が起草したと言うことが一般には知られています。
しかし、ここに、一つの仮説があります。上奏文の草案を方谷が書き、山田方谷→板倉勝静→永井尚志(なおゆき)を経て、徳川慶喜に届けられたという説です。大政奉還については、永井尚志(なおゆき)、板倉勝静ともに、慶喜に受け入れるようすすめていることから、板倉勝静を補佐した山田方谷が関与していることは、容易に想像できます。