経世済民を貫いた財政家・山田方谷その6(全10回)
11月1日に長崎で行われた戊辰戦争研究会長崎集結で山田方谷について発表されたおなさんから発表資料と解説をいただきました。是非マニアックスで紹介させてほしいと言ったところ、快くOKしていただきました。
ありがとうございます。

 方谷には、三島中洲など多くの弟子がいます。また、来遊者としては、久坂玄瑞や会津藩の秋月悌次朗(明治以後、新政府に出仕)がいます。しかし、やはり弟子で有名なのは、越後長岡藩の河井継之助でしょう。安政6年に、弟子入りし、約半年間、方谷の元で継之助は、松山藩の藩政改革をつぶさに見聞しています。作家司馬遼太郎氏の「峠」を読んで河井継之助を知った方も多いと思います。
また、山田方谷の名を「峠」で知った方がほとんどだと思います。河井継之助については、継之助が去ったあと、方谷は、内弟子に「大変な男を弟子に持ってしまった」と語っています。継之助は、長岡にもどると方谷の元で学んだ改革を自藩で実践します。継之助は、最後には長岡藩・家老上席になります。
しかし、以外に早く、徳川幕府が倒れたため継之助の想いであった長岡藩武装中立の夢は薩長軍により潰えました。方谷は、最後まで「義」を貫き徹し戦争になったことには、批判していません。
 (さて、読者には、お詫びをしないといけません。主催者より、坂本龍馬、河井継之助、司馬遼太郎さんなど、なじみの人たちのことも話してほしいとの要請があり、話がとっぴな方向にすすみますが、お許しください。)

 河井継之助は、安政六年に、長崎にも訪問しています。会津藩士の秋月悌次朗や、長崎海軍伝習所にいた幕臣矢田堀景蔵にも会っています。
ここで、すこし横道にそれてみましょう。さて、長崎といえば亀山社中、海援隊の坂本龍馬でしょう。作家の司馬遼太郎は、「竜馬がゆく」で坂本龍馬を、「峠」で河井継之助を書いていますので、この二人を比較しながら、幕末の人物や作家司馬遼太郎がなぜ、無名だった幕末のこの二人にスポットを当てていったかを考えてみましょう。

 ここで、継之助と龍馬をあれこれ比較してみましょう。まず、生誕地ですが、龍馬は温暖の地、南国の土佐です。土佐藩は外様の24万石の大藩です。継之助はと言うと豪雪の地、北国(ほっこく)、越後長岡です。長岡藩は、譜代の7万4千石の小藩です。終焉の地は、どうでしょう。龍馬は大都会の京都で暗殺されます。継之助は、片田舎の只見で戦(いくさ)の傷がもとで亡くなります。
龍馬は、当然、暗殺で亡くなることは知りませんから死の直前まで、死のことを考えていなかったと思います。一方、継之助は言うと、戦の傷で、もう自分の体は何日も持たない。自分の遺体の処理まで考えていたと言われています。死後、龍馬も継之助も記念館と碑が造られますが、これも非常に対象的です。龍馬は、生誕の地、高知に立派な坂本龍馬記念館あります。
しかし、終焉の地、京都には、「坂本龍馬遭難の碑」があるだけです。ところが、継之助はこれとは反対で、長岡市には、幼少のころ育った家の場所には、「河井継之助邸跡の碑」があるだけですが、終焉の地、只見・会津塩沢には、継之助終焉の間を保存してある河井継之助記念館があります。ただ、3年前に、長岡にも河井継之助記念館ができたので、すこし様子が変わってきました。