改革の達人 幕府最後の老中主席の政治顧問 山田方谷とは


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経世済民を貫いた財政家・山田方谷その3(全10回)

Filed under: 論文・研究会 — admin @ 6:49 PM 2008年11月22日

11月1日に長崎で行われた戊辰戦争研究会長崎集結で山田方谷について発表されたおなさんから発表資料と解説をいただきました。是非マニアックスで紹介させてほしいと言ったところ、快くOKしていただきました。
ありがとうございます。

ここで、方谷の年譜を紹介します。
方谷は、備中松山藩の参政になります。参政とは家老職に相当します。また、藩主勝静公が幕府老中になると方谷は老中顧問にもなります。しかし、方谷は、武士の生まれではなく、農民の子として生まれています。
1805年文化2年に方谷は生まれます。1827年に西郷隆盛が、1835年に坂本龍馬が生まれています。幕末の志士よりも一世代早い生まれです。1834年天保5年方谷30歳のとき、江戸の佐藤一斎の塾に入門します。佐藤塾には、当時、佐久間象山(ぞうざん)が入門していました。1849年嘉永2年方谷45歳のとき、養子勝静公が藩主になります。このとき、松山藩は、負債10万両をかかえおり、藩内は武士も農民も貧乏のどん底にありました。方谷は元締役兼吟味役となり藩の中枢を担い、藩政改革に着手します。安政5年には、久坂玄瑞が、翌年には、河井継之助が来遊しています。
藩主勝静公は幕末筆頭老中になり、勝静公とともに、方谷は、幕末維新の動乱に巻き込まれてゆきます。方谷は、陽明学者ではめずらしく天寿を全うし1877年・明治10年に73歳でなくなります。

 1834年方谷30歳の時、佐藤一斎の塾に入門しています。
佐藤一斎は、当時、江戸では有名な儒学者です。佐藤一斎の塾生で有名な人物に、横井小楠、佐久間象山(ぞうざん)がいます。一斎の塾では、佐藤の二傑と言われたのが、山田方谷と佐久間象山です。象山が塾に入ったのは、方谷よりも2ヶ月早く、方谷にとって象山は、兄弟子になります。
しかし、方谷は、象山を追い抜き、塾頭になります。横井小楠は、福井藩で、坂本龍馬と交流があった人で、坂本龍馬に大きな影響を与えた人物です。方谷と横井小楠とは、佐藤塾時代には、接点はないようでが、幕末、この二人は、幕府の重役の顧問として会っています。
横井小楠は、政事総裁職・松平春嶽のブレーンに、山田方谷は、筆頭老中・板倉勝静のブレーンになり、幕末・幕府内部の裏方で活躍します。簡単な系譜を紹介しますと、小楠は坂本龍馬の、象山は吉田松陰に、そして、方谷は河井継之助に影響与えています。

 いままでは、方谷の人物評や年譜、関連した人物の紹介でしたが、では、実際には、方谷は、どのようなことをしたのかを話します。
幕末、山田方谷は、備中松山藩の藩政改革で当時有名になりましたが、ここでは、藩政改革で有名な上杉鷹山と比較します。方谷が、元締役兼吟味役になったとき、松山藩の財政状況は、負債が、10万両にも達していました。街道の籠かきからでさえ、松山藩の籠はかくなと陰口を言われ、財政は極度に悪化していました。
その備中松山藩5万石(実高は2万石)の借金10万両をわずか、8年で返還したのです。山田方谷の改革は、上杉鷹山と比べると、負債こそ、1/2の10万両ですが、収入は、表高さえ、1/3の5万石。これに対して、返却期間は、1/10の8年、負債返却時の余剰金は20倍の10万両となっています。鷹山は、ケネディアメリカ大統領が尊敬する日本人ということで有名になっていますが、この表をみるといかに方谷が鷹山を上回っているか一目瞭然です。