11月1日に長崎で行われた戊辰戦争研究会長崎集結で山田方谷について発表されたおなさんから発表資料と解説をいただきました。是非マニアックスで紹介させてほしいと言ったところ、快くOKしていただきました。
ありがとうございます。

 昨今、企業改革、国・地方の財政改革で、山田方谷は、企業経営者・政治家の間で「静かなブーム」を巻き起こしています。
ちょっと古い新聞ですが、2004年2月21日のサンケイ新聞に山田方谷の記事が載りました。要約すると、「構造改革、財政改革など遅々と進まない改革の中で、幕末の陽明学者・山田方谷が『改革の天才』として注目され、企業経営者の間に徐々に浸透していると言う。
方谷は、備中松山藩の重職に抜擢され、藩政改革の断行によって十万両の借財を8年で返済。返済時には、逆に、十万両の蓄財をした人物。方谷が言った『改革は手法や数字でできるものではなく、練られた哲学が必要だ』の言葉を多くの経営者が重く受けとめている。」と記事にあります。
作家の司馬さんも、方谷には、関心を持っていたようですので、紹介します。

 右下の人物像が、山田方谷です。方谷は、明治まで存命しますが、残念ながら、写真はありません。
備中松山藩は、幕府最後の筆頭老中・板倉勝静公を藩主とする岡山5万石の譜代藩です。板倉勝静は、永井尚志(なおむね)と共に幕府側で、大政奉還に関わった人物です。
方谷の偉さについて、司馬先生の方谷の地元でのエピソードがあります。司馬さんは、「峠」の執筆中取材で、今の備中高梁、当時の備中松山藩を訪れています。
地元の方が、司馬さんに、「河井継之助の小説『峠』を書かれるのであれば、山田方谷の小説も書かれてはいかがですか?」と言ったところ司馬さんは、「方谷は小説にはなりにくい人物だなぁ」。地元の人が「どうしてですか」と問うと、司馬さんは少し考えて「うーん、どうも、方谷は偉すぎる。偉すぎて小説にならない。」と言ったそうです。
司馬さんの方谷の人物を評する一面はないでしょうか。

 山田方谷が仕えた板倉家備中松山藩5万石は、どこにあるかと言いますと、今の岡山県高梁市です。地図の星印の位置です。松山と言う地名は、明治以後、愛媛県の松山と区別するため、備中高梁と改名し、今は高梁市と言う名になっています。昨今の市町村合併により、高梁市も以前よりは、大きくなっています。
高梁市は、岡山市の西、倉敷市から、JR伯備線に乗り、約30分ほど中国山地に入ったところです。松山城は、今では、現存12天守閣の一つという貴重なお城となっています。