勝静は北海道にいた。榎本艦隊と行動を共にし、蝦夷共和国の設立をゆめみて北海道に渡ったのは12月のことだった。

そして数ヶ月、松山城開城以後、行方不明の藩主勝静候の捜索、主家の再興はは最大の課題だった。
松山藩藩士達は偽名を名乗り、隠語を使って京都、大阪から北海道に到るまで潜行した。
大石隼雄は小山謹造、三島中洲は島屋禎蔵、川田甕江は玉屋文作など、隠語も大いに使われ、勝静候は「玉椿」幼君は「紅梅」いずれも松山特産のたばこの銘柄で、藩士達は煙草屋となり全国で勝静候を捜索した。

方谷門人による血のにじむような捜索活動により方谷らはついに勝静の所在を突き止めた。方谷は年寄役西郷熊三郎に決死の蝦夷地潜入の指名を与えた。煙草の葉の行商人に扮した西郷は何とか蝦夷地の侵入に成功、勝静と念願の再会を果たした。

そして我が目を疑った。長年の逃亡生活のせいか、勝静は見る影もなくやせ細り、黒ずんだ顔の奥で目だけがギラギラとしている、しかしながら、蝦夷共和国の組織にあって勝静はすでに過去の人、何の役職もなくお荷物のような扱いを受けていた。
しかし、勝静の口から出た言葉は予想通りの物だった。
「私はこの地で戦い、そして死ぬ、先生にはそう伝えてくれ。」

西郷がいかに懇願しても勝静はいっこうに耳を貸そうとしない、そして困り果てている西郷に方谷への手紙を託した。

「そうか、動いてはいただけぬか。」

西郷の報告は瞬く間に備中松山の方谷のもとまで届いた。

ならば、策を講じるしかあるまい—方谷は再び動いた。
「こう伝えてくれ、武器商人ウェーフに亡命資金を渡す、それで外国に亡命してください。と」
そしてウェーフは蝦夷地に現れた、勝静は方谷の伝言通り亡命のためウェーフの船に乗り込んだ、行き先が江戸とも知らずに。

「だまされた」

勝静は激高するも後の祭りである、軟禁された勝静は秘密裏に江戸の松山藩邸まで連れてこられた。そこで待っていたのは松山城を無血開城に導いた立役者「泣きの大石」である。
大石はひたすらひたすら伏してそれまでの無礼をわびた。もちろん切腹も覚悟の上である。
「上様にはどうしても自首していいただかねばならんのです。国の為、藩士のため、民百姓のため、板倉家復興のためには上様の自首は避けられないのでございます。」

大粒の涙をこぼしながら、大の男が何度も頭を畳にすりつけている。
しばらくして勝静はスクリと立ち上がった。
「わかった、もうなにも言うな。」
そう一言残し、勝静は大石らの居る部屋を出た。
翌日、勝静は新政府軍に自首、まもなくして備中松山藩は五万石から二万石に削石され、高梁藩として復興を果たした。

【事件・出来事】
• 五稜郭の戦い
【勝静動向】
明治2年(1869年)
• 5月25日、帰京し、翌日自訴。
• 8月15日、上野国安中藩に永預処分となる。