王政復古の大号令により政権の座に着いた薩長はさらに徳川の勢力を奪おうと戦を仕掛ける機会をうかがっていた。徳川慶喜は全幕臣に対しくれぐれも薩長の挑発に乗らぬよう通達を出していた。対して薩長は嫌がらせともいえる様々な手で幕府を挑発してくる。
そんな中京にいる慶喜の目の届かない江戸で薩摩藩邸焼き討ち事件が起こった。それまで不満を抑え込まれていた幕臣達もこれを契機に一気に堪忍袋の緒が切れ、薩長を相手に武力行使に出た。

「しまった」
慶喜の本音だった。これで薩長に攻め入る口実を与えてしまった。こうなった以上戦は避けられぬ。
それからの慶喜の行動は行動をともにしていた勝静にとっては耐え難い物となった。慶喜は勝静や松平容保ら数名の家臣をつれ、夜陰に乗じて秘密裏に大阪城を脱出、江戸の遁走してしまった。

数万の幕府軍がその事実を知ったのは、翌朝日も高く昇ってからだった。
司令塔を失った幕府軍は数で劣る薩長軍に大敗を期すという大惨事となった。

大阪城を脱出の際、勝静は自分の警護にあたっていた松山藩士150名に松山に帰るように命じた。このことが、後にもう一つの悲劇につながってゆく。

【事件・出来事】
• 戊辰戦争
• 鳥羽伏見の戦い
• 新選組近藤勇投降

【勝静動向】
慶応4年(1868年)
• 1月10日、解官
• 1月23日、内国御用取扱を兼帯。
• 1月29日、老中御役御免。隠居。
• 2月19日、逼塞処分を受ける。
• 3月、下野国日光山に屏居。その後、奥州経由にて蝦夷箱館へ向かう。