文久3年3月、すでに重要用件の決定は幕府単独で決めることはできず、何でも朝廷にお伺いを立てなければならないまでに幕府は弱体化していた。
江戸に居たのではなにも始まらない。将軍家茂は老中勝静ら3千名をお供にきょうと二条城に入城した。

勝静は江戸から帰藩して2ヶ月もたっていない方谷を再び顧問として召命した。
幕府のとるべき策を方谷に訪ねる勝静に対し、方谷が言うべき方策はもはや一つしかなかった。
「いま、幕府がやるべき事は攘夷以外にはありません。それも幕府が先頭を切って今すぐにでも発起するのです。幕府が主導権を回復し、挙国一致の体制を作るには敵を外に起き内で固まる、そのリーダーシップを幕府がとる以外にはありません。」

しかし、実際に攘夷に踏み切ったのは数ある藩の中でも長州藩ただ一藩のみだった。

京都の治安は悪化の一歩をたどり、勝静の名により新選組が組織された。
備中松山藩藩士谷3兄弟も新選組入隊、しかし不穏な空気はどこまでも広がってゆく。

この年、会津藩と薩摩藩が結託した八月十八日の政変で京都から追放された。
長州藩の後ろ盾により奈良で決起を予定していた天誅組も後ろ盾を失い討伐を受けて壊滅した。松山藩士で、江戸で親戚藩の藩士新島襄と親睦を深めていた「原田亀太郎」は投獄され打ち首となる。

【事件・出来事】
• 八一八の政変
• 天誅組の変(備中松山藩 原田亀太郎が参加)

【勝静動向】
文久3年(1863年)
• 2月13日、将軍・徳川家茂上洛に伴い供奉。
• 6月16日、江戸に帰府。
• 11月5日、将軍・徳川家茂上洛に伴い、江戸留守。