方谷の病がやっと関した頃、またしても胃を患わすことが起きた。
藩侯板倉勝静が京都所司代などの地位をすっ飛ばして突然幕府老中に大抜擢されたというのだ!

こんな時ではあるが、幕府老中になるということは松平定信の血を引く勝静にとっては夢にまで見た大出世である。勝静はすぐさま方谷を江戸に呼んだ。

幕府復権の最後の手段は「攘夷」意外にないとふんだ方谷は11月には勝静を通して徳川家茂に攘夷実行を直接進言、しかし幕府は動かない。

現在幕府は外国からの圧力により開国を迫られている、開国に際しては満州、朝鮮との交易が急務である。法人を派遣し、物産を開発し、これを日本に運ばせる。基地には佐渡と隠岐を使用する。すぐにも清国、朝鮮と交渉しなければならないが、これが決裂した場合、直ちに出兵を行う。(方谷の「北方交易論」)

文久3年5月、長州藩がイギリス・フランス・オランダ・アメリカ相手に下関で上位を決行した、幕府老中板倉勝静の相談役だった方谷にも、事件前後に様々な情報が入ってくる。
方谷は様々な指示を勝静に送るが、勝静の動きは鈍い。魚水實禄にはこのときの方谷と三島中洲の書簡も収録され、幕府の狼狽、長州の攘夷決行に対する方谷の意見、そして事件の顛末までは克明に記録されている。

その後、幕政に対して方谷は事あるごと勝静に意見していった、しかし、藩政ではすべて方谷の言うとおり行動していた勝静だったが、幕政に関してはその態度は変貌し方谷の助言は全く通らない。
その間も幕府の弱体化はどんどん進行してゆく。

「もう先は短い」方谷は確信した、その後の方谷の採るべき行動はただ一つ、藩侯勝静をこの沈没しようとしている巨船から救出し藩侯と藩民の生命財産を守ることのみ。
「なにとぞ、なにとぞ老中職の辞職を–」
方谷は勝静に老中職を辞して松山に帰るよう勝静に何度も願い出た。
幕府と藩の狭間に揺れる勝静にとってこの問題をすぐに決めることはできない、ましてや自分は松平家の血を引く武士である、ここで幕府を捨てて逃げることは考えられない。
勝静にとっては「近いうちに辞職して帰る」と方谷に言うのがやっとだった。

【事件・出来事】
• 浪士組(新選組)結成