松山の方谷の元に衝撃的なニュースが伝わった。
老中井伊直弼が江戸城桜田門にて長州藩士に襲われ絶命したというのだ。

求心力を失った幕府は今までの強権政治から態度を一転、孝明天皇の妹和宮を14代将軍徳川家茂の奥方として迎え公武合体の政策を打ち出した。しかしこの政略結婚は尊皇攘夷倒幕を目指す一派は此に大反対の運動を起こす。幕府の混迷はますます深まっていった。

そんな折、またしても方谷の元にニュースが届いた。
藩侯勝静が井伊直弼に意見したことが評価され、再び奏番者兼寺社奉行に返り咲いたのだった。

この頃、川田は方谷の命をうけ西洋式の大型船の購入に東奔西走していた、川田は安中藩の新島襄らに漢学を教えに行くたびに、西洋船購入の苦労話をしていた。そして、1862年、備中松山藩は1万8000ドルでアメリカから大型帆船「快風丸」を購入、川田は快風丸の処女航海にあたり、教え子であり、軍艦教授所へ通っている新島に初航海航海の協力を求めた。

【事件・出来事】
• 桜田門外の変
【勝静動向】
• 1861年 寺社奉行・奏者番を再役。