勝静が寺社奉行に就任してまもなく、時の老中阿部正弘が39才の若さでなくなった。
阿部の後をとった掘田では開国か鎖国か、家茂か慶喜かに揺れる幕臣達を押さえることはできず、幕政は敏腕で知られる井伊直弼が仕切ることとなった。
幕府の復権を焦る井伊の政治は、尊皇攘夷の志士たちを次々と逮捕しては厳罰に処すという独裁者的な物で、

井伊の行った政治は、尊皇攘夷の志士たちを次々と逮捕しては厳罰に処す、幕臣であっても口出しは許さないという独裁者的な物で吉田松陰や橋本左内など多くの志士達がとらわれ処分された。
このとき勝静は幕政に参加できる寺社奉行という立場で井伊直弼にこう意見した。
「大老殿、今回のような弾圧ではかえって人心は幕府から離れてしまいます。
どうか、処分は大物数人にとどめ、他多数には寛容な措置を」

しかし、この意見と聞いた井伊は烈火のごとく怒りだし、その場で勝静をなじりとばし寺社奉行を罷免した。

おなじころ、備中松山では方谷が組織した農兵の軍隊「理正隊」の訓練を桔梗川原で視察している若者がいた。方谷の案内で理正隊の視察に来た長州藩の久坂元瑞である。1400名の兵士が整然と整列し、隊長の号令にしたがい次々と新型の西洋銃で目標を射止めてゆく。久坂はあまりの事にあっけにとられた。こんな山奥の小藩にこんなにも恐ろしい軍隊があるとは。
久坂はこのときの驚きを手紙にこう綴っている。
「我が長州藩軍は備中松山に遠く及ばず–」

【事件・出来事】
• 日米修好通商条約

【勝静動向】
• 1859年 寺社奉行・奏者番の両職を御役御免