1850年3月藩主勝静は江戸から帰るや、家老達に召集令をかけた。御根小屋の大広間に集められた松山藩家老らのまえで方谷は自らがまとめた「申上候覚え」を読み上げた。
この「申上候覚え」とは現在の松山藩の具体的な状態が一切包み隠さずつづられていた。

「—以上」

方谷が「申上候覚え」を読み終えたとたん家老達はあらためて聞かされた「10万両–」の言葉に息をのんだ。

家老達が口々に言葉にならない言葉を発しているとき。藩主勝静はすくりと立つとこういった。
「今後は余がまず率先して倹約に取り組むこととする。おまえ達家老も全員本日より倹約にはいること、そして、今後方谷に関するいかなる悪口も一切許さない、方谷の言葉は余の言葉と思うように、また今後の改革に反対する物は厳罰に処す。」

藩政改革の大号令である。方谷はすぐに倹約令を発布し、改革が始まったことを藩民に伝えた。そしてまず一番はじめに方谷が行ったのは”自らの俸禄を大幅に削減する”ことだった。そしてその後倹約の対象を”中級以上の武士と豪農-豪商が中心”とした。

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