方谷の元締め役兼吟味役就任の報は瞬く間に藩内の知れるとこととなった。この異例の抜擢は、当然のごとく多くの既存藩士の怒りをかった。方谷が江戸から帰藩した後も噂は噂を呼び、藩内には方谷を揶揄する狂歌が飛び交い、やがては方谷暗殺の噂までもが飛び交うようになる。

その間、方谷は弟の死の悲しみに浸るまもなく藩の実質の財政調査を行っていた。調査は連日昼夜まで及び、様々な数字が浮かび上がってきた。それまで公称5万石といわれた松山藩の石高が実質は1万9千石ほどしかないという。

調査はさらに続く、方谷は当時の大福帳では資産と負債の項目がはっきりしないことを悟り、製油商の経験から「藩財家計引合収支大計」という独自の藩財政の収支の試算表を作った。そしてその結果、恐ろしい事実が浮かび上がった。

藩の現在の借金は10万両を超える、松山藩はその事実をひた隠しに隠し借金のための借金を重ねた。実質の藩財政は破綻していたのだった。

「できるか—」驚くべき結果をはじき出した瞬間、方谷の背中は凍り付いた。
「しかし、やるしかあるまい–」方谷は帳簿を閉じると、しばらく目をつむり、そして立ち上がった。

【勝静動向】
• 1851年 板倉勝静、奏者番に任命