西暦 年号 そのとき日本では
1827 文政10年 0歳 1月1日に、長岡城下長町に生まれる
1837 大塩平八郎の乱
徳川慶喜生まれる
1842 天保13年 16歳 元服して秋義と名のる
1843 天保14年 17歳 鶏在割きて王陽明をまつり、立志を誓明
1844 弘化1年 18歳 家宅類焼により長町へ移る
1850 嘉永3年 24歳 藩士梛野嘉兵衛、妹すがと婚儀
1851 嘉永4年 25歳 板倉勝静は幕府の「奏者番」に任命
1852 嘉永5年 26歳 江戸に留学
1853 嘉永6年 27歳 江戸遊学。斎藤拙堂の門に入り、ついで古賀茶漢の久敬書へ移る。

献蓄書を藩主牧野忠雅に提出。抜濯されて御目付格評定随役となる

ペリー浦賀に来航・井伊大老は勅許を得られぬままアメリカ駐日総領事ハリスと日米修好通商条約を結び、下田・箱館のほか神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、外国人居留地の設定
1854 安政1年 28歳 1月、帰国。藩庁に出仕するが就職できず
1855 安政2年 29歳 6月、藩主養嗣子の「御聴覧」を断る。
1856 安政3年 30歳 川島億次郎と石巻・金華山ー仙台へ。
1857 安政4年 31歳 家督相続。この年、外様吟味役となり、宮路村の訴訟を担当 勝静は幕府の要職である「寺社奉行」に就任
1858 安政5年 32歳 再度の江戸遊学に出発
継之助、長岡藩より横浜の警備隊長命ぜられる
品川遊郭事件
日米修好通商条約に調印
9月、安政の大獄が起きる
1859 安政6年 33歳 2月 継之助が長岡から江戸へ到着
継之助、江戸の久敬舎(古賀塾)に入る
4月9日 継之助がオランダ商館を訪問-福地源一郎、ファブルブランドと出会う
継之助、久敬舎(古賀塾)退塾
7月6日 備中国松山の山田方谷に学ぶため江戸を出発する
8月14日 備中国松山へ到着
8月15日 継之助は長瀬の方谷と面会
継之助を会津藩の秋月悌次郎が訪問
10月15日 継之助、四国の金比羅に参る
10月28日 継之助が太宰府天満宮に参拝
継之助が広島、下関、佐賀を経て長崎に到着する
継之助、父、代右衛門隠居により家督を継ぐ
2月、板倉勝静、安政の大獄の件で大老井伊直弼に意見したことが発端となり奏番者件寺社奉行を免職。

4月、希望して西方村長瀬の一軒家に移住し土着政策を自ら実践する。

1860 万延1年 34歳 江戸に帰り、三たび久敬舎に入る 桜田門外の変が起きる
1861 文久1年 35歳 帰郷。藩政改革の意見書提出
1862 36歳 方谷、再び江戸にて勝静の顧問となる。
1863 文久3年 37歳 京都詰め
1864 元治1年 38歳 物頭格御用人兼公用人となり、江戸詰、支藩の笠間侯と論争し帰国 6月、勝静、老中職を免職
1865 慶応元年 39歳 継之助、外様吟味役から郡奉行に任じられ、山中事件を扱う。
10月13日 継之助、郡奉行に昇進、郡制改革を断行。
9月21日 第二次長州征伐宣言
1866 慶応2年 40歳 3月、中ノロ川普請掛。毛見の本陣を御蔵に変更。番頭格町奉行・郡奉行となる。町政刷新、賭博の禁止、寄場創設 薩摩藩と長州藩が連合する
1867 慶応3年 41歳 継之助、長岡藩家老職に任命される、小諸騒動を解決。中島操練場を拡大し練兵場とする。兵学所移転

継之助、藩主の名代として上京、京都御所へ建言書を提出
継之助は娼妓の禁止令を出す
12月25日 継之助は藩主牧野忠訓とともに藩士60名を従えて上坂

10月、大政奉還
12月。王政復古の大号令下る。
1868 明治元年 42歳 1月31日 継之助ら大坂を去る
3月26日 継之助は江戸呉服橋の藩邸を総引き払う
4月15日 継之助、スネル兄弟らとカガノカミ号で新潟にはいる
4月18日 継之助、横浜からコリア号で新潟到着
6月16日 継之助、長岡藩軍事総督となる
6月21日 小千谷の慈願寺で新政府軍の岩村軍艦らと会見、会談決裂
6月30日継之助ら、榎峠を奪回
7月10日 継之助、加茂に移動
9月10日 継之助ら、長岡城奪還開始
9月12日 継之助、軍病院の城下昌福寺に移動
9月19日 継之助、脚を負傷し会津領只見村に入る
9月27日 継之助、会津塩沢村に入る
継之助、会津領塩沢村にて死亡
江戸幕府がたおれ、江戸が東京にあらためられた