方谷ゆかりの地

山田方谷関連史跡てくてくマップ

高梁市街地にある山田方谷関連のスポットや碑などをまとめた散策マップです。また、高梁にお越しの際には下のPDFファイルを印刷してお持ちいただければ、方谷関連史跡を回る際には便利にご使用いただけます。

 

てくてくマップ(pdfファイル)の表示(340kb)
てくてくマップ(PDF・zip)のダウンロード(224kb)

松山城下史跡地図

-備中松山城下の市街地のゆかりの地マップ

中井町の史跡地図

-方谷生誕の地、中井町のゆかりの地マップ

方谷ゆかりの地

大佐町山田方谷記念館

平成16年3月30日に方谷終焉の地「岡山県大佐町」に「山田方谷記念館」がオープンしました。
この記念館は、白壁に黒瓦の木造平屋建て120平方メートル。展示室、研修室、茶室を備え、
町が約5200万円で建設したもので、方谷の足跡をパネルやビデオで紹介しています。

展示品には「方谷山田先生遺蹟碑」の縮小拓本
(高さ5メートル)や、方谷4歳の時の書「つる」方谷が書いた大政奉還上奏文草案の実物や遺墨などが展示されており、また入り口には方谷のブロンズ座像もおかれています。

同記念館(0867・98・4059)の開館時間は午前10時~午後4時。月火曜休館。入場料は18歳以上200円、18歳未満無料。(山田方谷記念館の看板、書は片山虎之助氏)

 

 

記念館に入るとすぐに方谷のブロンズ像が迎えてくれます。
記念館の表には大佐町の観光パネルも設置されています。

 

館内にはいると「方谷山田先生遺蹟碑」の縮小拓本(高さ5メートル)が目に飛び込んできます。

記念館奥の展示室にはガラスケースの中に方谷の書が展示されています。
吉備国際大学・矢吹邦彦教授所蔵の「大政奉還上奏文草案」の実物が展示されています。
草案の下には読み下し分も設置されていました。

 

方谷4歳の時に書いた「つる」の書、まさに神童だったのですね!

 

記念館内ではビデオによって方谷の生涯や業績を詳しく知ることが出来ます。
方谷の生涯が年表のパネルとして展示されていました。

 

 
記念館の少し向こうには「方谷庵」がたっています。
詳細はこちらへ

そのほか大佐町の町中央部には「方谷園」という公園があり
園内には記念館の目玉展示品の「方谷山田先生遺蹟碑」の縮小拓本の
もとである「方谷山田先生遺蹟碑」がたっています。
詳細はこちらへ

 

※記念館内部の写真は記念館館長氏の許可を取った上で撮影しています。
ゆかりの地コーナーの写真は2次利用OKとしていますが、記念館内部の写真に関しては
使用はご遠慮ください。

旧埴原家山田方谷資料館

埴原邸の一角には高梁の偉人「山田方谷」の資料館が設けられています。
ここでは方谷の采配や硯(いずれもレプリカ)などを見学することが出来ます。

 

現在の長瀬

長瀬とは方谷が切り開き好んで棲んだ元方谷邸の合った場所です。
高梁の中心地から20キロ程度北で、車でゆくにも15~20分かかります。
方谷邸のあった場所には現在JR方谷駅があり周辺にも数件の民家がありますが
まわりの景色は、130年前とさほど変わらずに現在に至っています。
現在は無人駅であり、そのつくりと相まって何となく「山田方谷」の人柄をしのばせる場所です。

山田方谷の住居跡にには、全国でも珍しい
人名駅として有名な方谷駅が建っています。
方谷駅は現在無人駅です。

方谷駅から見た眺望。
人間嫌いだった方谷が人里から離れたこの地に家を建てた頃とほとんど変わらない
景観がいまも広がっています。


撮影:平成14年4月22日 晴れ

備中松山城

<日本一高い場所にあるお城>

日本で最も高い場所にある山城で知られる。現在の天守閣は時の城主水谷勝宗が臥牛山、小松山に修復したもので国の重要文化財に指定されている。
備中の国を舞台とした「備中兵乱」の舞台にもなった。

市街地北端の臥牛山に築かれた山城で、現存する山城としては,、最も高い標高430mの所にある。天守、二重櫓、土塀の一部は天和3年(1683)に修復された当時の姿で現存しており、中世の貴重な遺構として国の重要文化財に指定されている。平成9年には本丸の南御門・東御門などが復元された。

◆休城日:年末年始
◆入城時間:午前9時~午後4時
◆入城料:大人300円・小中学生150円(団体割引あり)
◆交通:JR伯備線・備中高梁駅より車で10分、降車後、徒歩20分。中国自動車道賀陽ICより車で15分。

■お問い合わせ
0866-22-1487
駐車場20台(ふいご峠)
シャトルバスあり:往復300円

方谷園

方谷園とは、山田方谷の出生の地である中井町西方にある公園です。
園内には方谷先生の墓や山田家歴代の墓などがあります。

また園入り口にある「方谷園」の園命を刻んだ石碑は犬養毅による物で、方谷先生の墓の文字は
元藩主の板倉勝静によるものです。

 

 

方谷の里ふれあいセンター

市が中井地域の農業振興、都市 と農村の交流促進、伝統文化の伝 承活動など、農業を軸とした地域 活性化の拠点施設として、建設を 進めていた『方谷の里ふれあいセ ンター』が完成し、4月 27 日にし ゅん工式が行われました。

建物は、木造平屋478g で、 白壁、瓦ぶきの落ち着いた雰囲気 で玄関屋根にはステンドグラスの 明かり取りが付けてあります。内 部は多目的ホール、農産加工室、方谷資料展示室などを設けました。 総事業費は1億3960万円。 「多目的ホール」は、180名 収容可能で、郷土芸能である ” 備 中かぐら太鼓 “ の練習や地域の各種 会議、イベントなどに利用ができ ます。

「農産加工室」では、中井町の 特産として定着しつつあるテンペ 味噌などの製造ができ、農産加工品を生かした地域の農業振興が期 待されます。

また、同町は、幕末の備中松山 藩の藩政改革や教育に尽くした山 田方谷の生誕地であることから、 「方谷資料展示室」を整備。デジタ ル・ビデオディスク(DVD)に よる山田方谷シアター、生い立ち から晩年までのタペストリー展示、 インターネットによる方谷関連ホ ームページの閲覧ができ、地元に 残る方谷の遺作も展示しています。 また、センター整備に合わせ隣 に中井地域市民センターを移設し ました。

住宅跡の碑

【方谷駅うらの碑】
JR方谷駅の裏には「山田方谷先生住宅跡の碑」がたってます。
1.5メートル前後ある大きなもので駅のホームからも望むことが出来ます。
撮影:平成16年5月6日

方谷山田先生遺蹟碑

大佐町の方谷園には方谷終焉の地の碑が建っています。10メートルもある大きなものでこの地で永眠した方谷の枕元の場所に立てられたと言われています。

方谷山田先生遺蹟碑の文面(口語訳)

我が方谷先生は、備中松山藩主(板倉勝静)の富国強兵の政治を輔佐された。その完了後は引退して郷里西方村で家塾を開かれた。学徒が各地から集まり、読書の声が山や谷にひびいた。

暇には、祖先の遺産をまとめて更に新田を開墾し、家運は盛んになった。先生はこれで祖先の祭祀が出来るとされて、家を嗣子の明遠(山田耕蔵号は知足斎)に譲り、刑部の山中に移住された。

刑部は先生の亡くなった母の出生地である。その西谷氏の家系が久しく絶えていた。先生は再興をはかられ、時に明治三年十月のことである。

先生に、従学する学徒はますます多く、塾舎は棟をならべて常に数百人が在塾して、静かな村はにぎわった。先生の外祖父母の忌日には必ず墓参された。墓は小南村の金剛寺にある。先生は墓表の文を指さして、お供の童に語って言われた。これは自分の師匠の丸川松隠先生の子息慎斎が書かれたものである。これを書かれた時には八歳であった。と。そして久しく物思いにふけっておられた。

また、小庵を墓側に建てて休息所とされたが、庵に入って静坐して頭を低れて思いをこらされると、祖先の霊が在すがごとくに傷み悲しまれて、お供の童は思わず感興をおぼえた。かくして時をすごし、また一宿して帰られることもあった。

やがて年月がたち束修が多く積もったので、田地を購入して家屋を建て、新見村の林謙作の次男巻太郎を養子とし、先生の親戚小野定一郎の娘と結婚させて西谷家を継がせた。先生は定めし喜ばれたことであろう。

明治十年六月二十六日、先生は俄かに逝去された。明遠は枢を奉じて西方村に帰り葬った。近頃門人等が相談して、刑部の先生の学塾の傍らに石碑を建てて、遺蹟のしるしとし、私(三島中洲)に碑文を書くようにもとめた。思えば先生は藩主をよく補佐し、祖先によく奉仕して、忠と孝を兼ねて全うされたのである。後世の模範として碑の銘文を書かなければならない。

先生の名は「球」、字は「琳卿」、号は「方谷」山田氏である。その学問と事業とは、かつて詳しく記して藩祖廟(高梁市の八重離神社)の側に大碑があるので、ここでは省略する。銘の文は左のようである。

忠を説き孝を述べるのに、世の学者は多くある。しかし言葉だけで実行がともなわない。鳴呼、先生は実践躬行された。

その人柄がそのまま手本であり、更に□で説く必要はない。後世の人々が感奮するのはもっともなことである。先生は今は亡いが、永久にその典型は存する。銘文は千古に伝わり、忠孝の碑は滅びない。


篆額揮毫
枢密顧問官従二位勲一等伯爵
勝安房(海舟)

撰文
東宮侍講正五位
三島毅(中洲)

揮毫
貴族院議員錦ケイ間祇候正四位勲三等
金井之恭

刻字
倉敷の名石工
藤田市太郎

連絡先
大佐町教育委員会
阿哲郡大佐町永富士ニニ一
電話○八六七-九八-二〇七四

訳者 金沢大学名誉教授文学博士・
山田琢先生(方谷の曽孫)昭和六十二年三月
上記文章は方谷記念館で配布している冊子を転載したものです。

方谷庵

岡山県指定史跡、大佐町の金剛寺の境内にある小庵で、晩年方谷がここで過ごしました。
中にはいるとまるで方谷先生の息使いが聞こえてくるような感じで、他の場所では感じられないほど先生を身近に感じることが出来ました。

一般的には方谷庵は大佐町出身の方谷の母を奉るために創られたと言われていますが、一説にはその年の1月に亡くなった方谷の愛娘「小雪」の死を悲しみ、人前では泣かない方谷が、この庵にこもって泣いたとも言われています。
仏壇には方谷先生の位牌が在ります。

※方谷庵内部の写真は金剛寺の許可を取った上で撮影しています。
ゆかりの地コーナーの写真は2次利用OKとしていますが、方谷庵内部の写真に関しては
使用はご遠慮ください。

見返りの榎

見返りの榎とは方谷駅の高梁川を挟んで対岸にある大きなエノキの木で、河井継之助が方谷の元を去る際にこの木下で振り返り、3度土下座を繰り返して方谷を生涯の師と仰いだ場所といわれています。

現在、見返りの榎木は高梁川の堤防からニョキッと生えている様な形となっています。
また、この榎木には不思議な言われもあり、堤防浩治の際、この木を伐採しようとするとなぜか所有者に
災難が重なり、そのためこの木だけは切られずに今のようにそのまま残されたと言われています。


方谷駅から見た榎


現在、榎は堤防のあついコンクリートで守られています。

榎から見た方谷駅

頼久寺

頼久寺由来天柱山安国頼久禅寺は、臨済宗永源寺派に属し、その草創は不詳であるが、暦応2年(北朝年号1339年)足利尊氏が再興して備中の安国寺と号した。

当時、中国より帰朝して備中備後路を巡錫中の寂室元光禅師(正燈国師)を迎請して、開山第一祖とした。

幕末方谷の時代には作戦本部として松山藩の藩士に活用された。


後に永正年間(1504年)松山城主上野頼久公が大檀越となり寺観を一新し大永元年逝去したので、頼久の二字を加えて安国頼久寺と寺号を改称した。

尚、当山御本尊は、聖観世音菩薩で備中西国第五番の札所であり、昭和60年3月に開創された瀬戸内観音霊場第十三番の札所である。

 慶長5年(1600年)小堀新助正次が備中国に一万石余を領したが、慶長9年に逝去したので一子作助政一(遠州)が遺領を継いだ。

そのころの松山城は備中兵乱後で非常に荒廃していたため遠州は頼久寺を仮の館とし、またよく本寺を外護され、元和5年(1619年)まてこの地にいた。

この庭園はその頃の遠州の作定になるもので、蓬莱式枯山水庭園で愛宕山を借景し、白砂敷の中央に鶴島、後方に亀島の二つの低い築山状の島を置いて石を組み、書院左手の山畔に沿ってサツキの大刈込みで青海波を表現した庭園である。

鶴島は三尊の石組を中心に周囲をサツキの刈込みで中島景観を表現し、亀島は亀の姿を具象的に表現している。又、山畔のサツキー植の大海波を表現する大刈込みは、園内最も優れた美的景観を示している。

このような築庭様式は、桃山から江戸初期に好まれたもので、現在まで旧態のまま保存されていることは、歴代城主の帰依の念篤きことと、歴代住職の愛山の念深きことによるものであって、遠州作庭中の傑作庭園と称せられており、昭和49年国の名勝(庭園)に指定された。

尚、白筆の禁札他遺愛品数点が保存されており、別に暦応2年12月西念勧進による石灯籠がある。

小堀遠州

小堀遠州は天正7年(1579年)近江国小堀村に生まれました。

幼名を作助といい大人になってからは政一と称しました。遠州は幼少の頃より父新介正次の英才教育を受け、千利休、古田織部と続いた茶道の本流を受け継ぎ、徳川将軍家の茶道指南役となります。父の逝去後、備中松山城を預かり備中の政務を司どります。

慶長13年(1608)駿府城作事奉行をつとめ、その功により諸太夫従五位下遠江守に叙せられ、これより「遠州」と呼ばれるようになります。

書画、和歌にもすぐれ、王朝文化の理念と茶道を結びつけ、「綺麗さび」という幽玄・有心の茶道を創り上げました。遠州は、後水尾天皇をはじめとする寛永文化サロンの中心人物となり、また作事奉行として二条城、大阪城、江戸城西丸などの作事(さじ)奉行としても活躍し、禁裏(皇居)の造営などにも活躍しました。桂離宮庭園(京都)や大徳寺狐蓬庵(京都)、県内では大池寺庭園(水口町)などが有名です。

頼久寺の他、大徳寺孤篷庵、南禅寺金地院などが代表的な庭園です。美術工芸においては「中興名物」の選定や、高取・丹波・信楽・伊賀・志戸呂など国焼の茶陶の指導にも偉大な足跡を残しています。

また、中国、朝鮮、オランダなどの海外への茶陶の注文にも力を注ぎました。豊臣から徳川へという激動の時代を生き抜き、日本の美の系譜を再構築し、新たに近世初頭の明るい息吹と瀟洒を極める美意識を生んだ遠州は平和な時代へ向けて基礎を築いたといえます。

 

御根小屋跡

御根小屋とは藩主の住居と行政用の建物をかねたもので、慶弔10年(1605年),備中国奉行・小堀遠州が頼久寺からココに移り住んだ。天和元年(1681年)には水谷勝宗が備中松山城と御根小屋を大改築した。

現在は当時の建物は残っておらず、跡地には岡山県立高梁高校が建つ。

御根小屋 正面


当時の配置図が紹介されています。


御殿坂

元藩校有終館

はんこうゆうしゅうかんあと


備中松山藩の学校として建校されたが、天保3年(1832年)の大火により、
内山下にあった元有終館が類焼。時の学頭奥田楽山が中之町に再興した。

その後、同10年にはまたまた焼失し、嘉永4年に山田方谷が再興した。
現在、当時の建物はなく同敷地内には高梁幼稚園が建つ。


有終館跡、現在は高梁幼稚園
左手の建物は消防団の消防車倉庫兼公衆便所


方谷の大松

方谷人身が植えたと言われる大松

中洲公園

備中松山城登山道に沿った小高下谷川周辺にあ る「中洲公園」。昭和61年から平成2年にかけて、 県の砂防環境整備事業に合わせて、市が約1ヘク タールを 整備しました。近くに、山田方谷の門弟で陽明学 者の三島中洲の住宅「虎口渓舎」跡があることに ちなんで「中洲公園」と名付けられました。

小高下谷川からの水を取り入れた親水公園とな っており、園内には自然石を利用した人工の滝 「牛麓の滝」や三連水車、展望台、遊歩道などが あり、滝口から落下する水しぶきやのどかにまわ る水車が涼を感じさせています。

中洲公園名物 3連水車

安正寺

備中松山城主板倉家の菩捉寺で曹洞宗に属し、板倉公歴代の香華院御霊位祭祀の道場で、大本山永平寺直轄別録所格式である。第七代勝澄公は延享元年(一七四四年)三月、備中松山城主となるや現在地に御霊堂を建立し、板倉家歴代の御位牌を祀り御仏殿とした。

初代勝重公、第二代重宗公はともに京都所司代に任ぜられ、徳川幕府最後の老中勝静公までの霊をお祀りしてある。朝敵になった当藩家臣団と朝廷側岡山藩との交渉が当寺で行われた。

(情報元:城下町備中高梁神社寺院めぐり 高梁観光協会発行)

 


備中松山城主・板倉家の位牌所で曹洞宗に属し、永平寺直轄別録所格式である。7代板倉勝澄は延享元年(1744年)3月伊勢亀山から入封、備中松山城主となるや現在地に御霊堂を建立し、板倉家歴代の位牌を祀り仏殿とした。

(情報元:高梁観光百選 高梁観光協会発行)

八重籬神社

寛政五年(一七九三年)、備中松山藩主板倉勝政公の創建で、祭神は板倉氏始祖勝重公、二代重宗公を祀る板倉氏の氏神である。勝重公、重宗公は京都所司代二代三代を五十余年にわたり勤めた。

幕末の藩主は板倉勝静公で、幕府老中であったため、鳥羽伏見の戦に敗れてのち朝敵となり、江戸、東北、北海遺と藩主のみ転戦した。高梁の地にあった藩士達は、大阪城での藩主護衛隊長熊田恰一人の責として、慶応四年(一八六八年)正月二二日、自刃し兵火を免れる。明治二年、摂社として本殿右奥に祀られた。

(情報元:城下町備中高梁神社寺院めぐり 高梁観光協会発行)

 


備中松山藩主板倉勝政の創建で、祭神に板倉家始祖勝重・2代目重宗を祀る板倉氏の氏神である。 社宝として備中松山城宝剣三振や藤の胴の太鼓、板倉勝重座像がありいずれも市指定重要文化財となっている。

(情報元:高梁観光百選 高梁観光協会発行)

 

八重籬神社には非常に多くの碑が建立されています。

臥牛亭

熊田神社

臥牛亭

市指定重要文化財

指定年月日 昭和33年2月24日

幕末のお山藩主板倉勝静が御根小屋(現県立高梁学校)敷地に隣接したお茶屋にこの小亭き建てた。お茶屋は藩主の想いの場所であり勝静はその一隅に農園を設けて自ら耕作きして農民の労苦を偲んだその傍にの小亭を建て農耕の神き祀り五穀豊穣き祈るとともに眼下に広がる城下の町並を眺め思いを領民に馳たと伝えられる。

その後朋治新政府は旧藩の武装解除の第一歩として明明6年10月廃城令を出し松山の山城御根小屋お茶屋等の建物一切が撤去されることとなったが山田方谷はこの小亭の失うことを悲しみ対岸の蓮華寺境内に移し自ら臥牛亭と名付け旧主勝静の道徳を長く偲んだその後藩祖勝重を祀るハ重籠神社境内に再び移築し今日に至る。御根小屋、お茶屋を通じて現存する唯一の確証ある建物である。

熊田神社


八重籬神社境内の奥にある神社。
藩と仲間と玉島の民を救うため、自刃した熊田恰を祀る。

方谷橋


方谷橋


奥に見えるのが方谷林公園

武家宿 花屋

司馬遼太郎の小説「峠」にて河井継之助が松山藩で長いこと宿泊した宿が「花屋」です。
現在、花屋はなく跡地には高梁北郵便局が建っています。

油屋旅館

木造3階建ての宿は高梁ならではのたたずまいを持つ。

方谷の時代、長岡より方谷の元へ弟子入りにきた河井継之助が油屋の前進である「花屋」に宿泊した。

ほか、与謝野鉄幹、晶子夫妻も高梁にきた折りここに泊まった、最近では映画「男はつらいよ」で寅さんが宿泊した事でも有名。

和室8部屋
一泊13000円より
高梁駅から車で5分

0866-22-3072
高梁市本町

牛麓舎跡

方谷の私塾「牛麓舎」の跡地です。
現在はなにも残っておらず、跡を記す碑だけとなっています。

生歯の碑

御前神社下の境内広場から南ヘキリスト教会墓地へおりる東側(左側)の秋葉山麓にあり。中洲生歯の碑は秋葉山麓の北側に南面して建ち、その前右側に中洲の夫人二方と両夫人に一人づつの幼女がいずれも故人となってここに眠る。中洲は自分の生歯をこれら四人の墓の傍に埋めて、哀惜の真情を詠じた。

水車跡

備中松山藩を訪れた河井継之助が方谷弟子入りの許可を得た跡しばらく寝泊まりしていた藩の宿。現在は碑のみが建っている。

碑の奥には昭和時代頃までは池とお茶や跡の神社があったが現在跡地には吉備国際大学が建つ。

虎口渓舎跡

 

三島中洲の私塾である虎口渓舎の跡地です。
現在は更地となっており、一本の碑が昔を物語っています。すぐ近くには三島中洲を記念してつくられた公園「中洲公園」もあります。

 

方谷林 風月岩

 

高梁市にある方谷林の山頂にある風月岩です。
風月岩とは方谷が4歳のとき書いた書「風月」の文字を岩に
彫り込んだものです。

 

奉納額「風月」
【ほうのうがく ふうげつ】

山田方谷(漢学者・備中松山藩士、1805~ 1877)が4歳(数え年)のとき書いた奉納額。 タテ111.5cm、ヨコ58.0cm。 方谷は幼少のおりから、神童の誉れ高く、最初 の師である新見藩儒丸川松穏(1758~1831) にもその才を称えられました。幼少時の方谷の書 は本額のように板へ書かれ、神社などに奉納され たものがよくみられます。奉納額はこのほかにも 数点確認されており、長じてからも方谷の書は多 くの人々に好まれました。 本書をもとに、近似の方谷林には「風月」岩が建 立されています。

方谷林

高梁川を隔て、市街地の西側に位置する公園である。明治43年(1910)、もと備中松山藩の家臣で、儒学者でもあった山田方谷に、明治天皇より正五位追贈の恩典があったのを記念し、併せて方谷の遺徳を永久に顕彰しようと、翌44年(1911)開園された。
園内には岡山県原爆慰霊碑、徳富蘇峰の詩碑、高梁三賢詩碑、方谷4歳筆「風月」の二大文字を刻した風月岩などがある。なお、山桜100本、ソメイヨシノ200本、サツキ6、300本も植えられて、春は特に美しい。山上からの眺めはすばらしく、市民の憩いの場となっている。


旧遷喬尋常小学校

旧遷喬尋常小学校は方谷が刑部から備前の閑谷学校に通う途中にあった尋常小学校で、方谷が中国の古典「詩経」の一説を採って「明親館」と名づけたと言われています。
設立は明治3年で元々は津山藩の郷学でした、開校時、方谷は「大学」を講義したと言われています。

写真著作:大工のげんさんby加古川からの小さな旅
写真ありがとうございます。この写真の無断転用はご遠慮下さい。

西爽亭(柚木亭)

江戸時代、柚木家は玉島の大庄屋で、備中松山藩(現在の高梁市)から奉行格の待遇を受けていた。西爽亭は、藩主の板倉侯が玉島を巡回する折りに宿泊場所にした建物で、江戸中期の庄屋建築の遺構をよく残している。海運で栄えた玉島港の南東の山麓に建っこの建物は、主屋に付属する座敷棟で、木造平屋建て、本瓦葺きになっている。

天明年間(1781~1789)に建築されたと伝えられ、備後国神辺(現在の広島県神辺町)の儒学者・菅茶山(かんちゃざん)によって「西爽亭」と名付けられた。
西爽亭を構成する座敷棟・御成門・茶室及び庭園の中で、御成門・式台玄関が、建築上特に優れている。

参考資料:倉敷市教育委員会文化財保護課発行冊子

御成門(おなりもん)

柚木亭の入り口本瓦葺きの薬医門形式で、屋根の四隅に意匠の凝った鬼瓦を乗せている。
西爽亭を示す看板

西爽亭を示す看板(これは意外と見落とす)「倉敷の玉島という街の一角に西爽亭という幕末維新の史跡がある。

ここは備中松山藩(現高梁市)の飛び地で、鳥羽伏見の戦いで賊軍となった松山藩士が多数故郷を目指して引き上げてきた。
藩老熊田恰の率いる約160名であったが、新政府側に包囲され熊田は自身の命と引き替えに部下の安堵を願う。この結果、両者の戦いも回避された。(草村氏レポート)

次の間その1

取り次ぎの間から見た自刃の部屋(次の間)取次の間(とりつぎのま)
広さ6畳の部屋。この部屋の右手にある奥行半間・幅2問の棚も、西爽亭の特色をよく表している。
次の間その2

お成りの間より見た次の間次の間(つぎのま)
比較的天井が高く、ゆったりとした数寄屋風の書院。慶応4年(1868)、この部屋で備中松山藩の家老・熊田恰が自刃し、幕末の戦火から玉島を救った。広さ10畳の部屋
次の間その3

熊田恰自刃の部屋(次の間)隣が上の間(かみのま)
比較的天井が高く、ゆったりとした数寄屋風の書院広さ10畳の部屋。床・違棚・付書院が備わっている。この部屋に、備中松山藩の藩主板倉公が宿泊した。
熊田恰の血痕

天井にある血痕彼の自刃した場所こそが、この西爽亭の次の間です。
天井に残る血痕の跡。この場に立った自分の身体に命の大切さと日本人の原点を見たような気がした。山田方谷・原田亀太郎・熊田恰。今一度、備中のいや我が日本の偉人を見直そう。
(草村氏レポート)
熊田恰の血痕その2

自刃の(次の)間の天井にある熊田恰の血痕を指す草村氏。熊田自刃の部屋の天井に残る血痕が何故か白でしたが、後日西爽亭に確認しますと「あまり生々しいので公開の前に拭かれ」たそうです。
(草村氏レポート 撮影:草村千茶)
高梁の熊田神社碑の拓本

高梁の熊田神社碑の拓本
(お成りの間=上の間にかかっていた)
熊田神社

玉島の羽黒神社内摂社の熊田神社
熊田の写真

西爽亭隣にある生涯学習施設にある熊田の写真
嘆願書下書き

嘆願書下書きなど陳列コーナー
嘆願書下書き

助命嘆願書下書き(清書は政府軍に出したとか)
式台玄関

式台玄関(しきだいげんかん)
入母屋の屋根には、凸型に緩やかに傾斜したむくりのある唐破風様の妻飾がついている。幅2間。写真は平成16年10月10日の西爽亭管理の方(4人で交代されているとか)と草村氏。

下書きを側に置いて自刃したために血痕が残ったそうです。
命日には西爽亭持ち主の柚木(ゆのき)家の当主が高梁の墓所である道源寺に出向かれているそうです。(撮影:草村千茶)

西爽亭へのアクセス

所在地 〒713-8102 倉敷市玉島3丁目8-25
電話 086-522-0151
開館時間 午前9時~午後5時
休館日 毎週月曜日・祝日・年末年始(12/28~1/4)・その他
交通手段
入館料 西爽亭部分  :無料
生涯学習施設:有料(下記の表をご覧ください)

※使用のきまり
指定場所以外での喫煙はできません(西爽亭部分は全面禁煙・火気厳禁です)。

次のような場合は入館や使用を制限することがあります。
1)公の秩序または善良の風俗を乱すおそれがあるとき。
2)施設または展示物等を損傷するおそれがあるとき。
3)営利を目的としているとき。
4)竹木の伐採・損傷や植物の採集等をするおそれがあるとき。
5)広告物や貼り紙等をするおそれがあるとき。
6)特別な設備または造作をするおそれがあるとき。
7)その他、施設の管理上支障があるとき。

熊田恰の墓

高梁市内道源寺にある。
撮影は平成17年1月21日、命日一日前でした。

山田方谷先生寓居址の碑

山田方谷先生寓居址の碑
この碑は頼久寺の車庫の南、第2駐車場のそばの民家の横にある。
方谷先生が藩政の激務の身をここに於いて休養されたり詩などを作っていた家があった。

備中松山藩野山学問所跡

 

野山学問所とは江戸時代末期、備中松山藩の藩儒であり執政の山田方谷が松山藩の東側の守りを固めるため、藩士の屯田兵化のつとめ、今の吉備中央町宮地の場所にあらたに町を切り開いた際、藩士らの教育のために設置した藩の教育機関です。・・

投稿者: admin

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。