備中松山藩 幕末前史
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備中兵乱
庄氏から三村氏へ
国道180号線を岡山方面から高梁に入るとすぐ目前に広がる大きな山がある。
13世紀のはじめ、この山、「臥牛山」の山頂に難攻不落の要塞として備中松山城は築かれた。
松山城のある備中の国は、今で言う岡山県高梁市になる。ここは中国地方を南北に結ぶ主要道がちょうど交わるクロスポイントの中心にあり、山陽、山陰道ににらみを利かす重要な戦略拠点であった。東は備前の宇喜多氏、北は出雲の尼子氏、西は広島の毛利氏と巨大勢力に挟まれここは南北朝の時代から、戦国の世にかけて、絶えず血なまぐさい争奪が繰り返された。
そんな血塗られた歴史の中でも、もっとも多くの兵士が命を落とす激戦となったのが「備中兵乱」として今に伝わる戦である。
天文二年(1533)、備中猿掛城主だった庄為資が尼子氏と組んで、備中松山の覇権を握っていた上野信孝を破り備中松山城に入城した。
同じ頃川上郡・鶴首城や国吉城を拠点とする三村氏もまた、備中の国を手中に収めようと勢力を強めていた。地域で覇権を握るためには備中松山への進行は不可避、三村氏にとって備中松山城に入城するのは懸案中の懸案だった。そこで三村氏は庄氏のバックである尼子氏と敵対関係にあり西国の覇者である毛利氏と結束、松山城へ侵攻しこれを陥落した。
明禅寺合戦
備中松山城を手に入れた三村氏の勢力はますます強くなる、さらには毛利の思惑もあり、三村氏は東の備前への圧力を強めていった。備前と備中はこの当時から犬猿の仲、この後も事あるごとに戦を繰り返す。
そんな小競り合いの続く中の永承10年(1567)、備中三村氏は備前藩宇喜多直家の沼城攻め込んだ、しかし備前宇喜多氏の反撃は厳しく撃退(後に明禅寺崩れといわれる) 、さらに宇喜多氏の刺客により元親の父、家親が備前、宇喜多家攻めで美作方面に出陣中、刺客に命を奪われてしまう。子元親は弔い合戦のため再び備前に攻め込むが大敗となってしまう。
明禅寺合戦の大敗によって勢力を落としていた三村氏だったが、その後の毛利氏の援助により、松山城を拠点とし何とか勢力を回復した。
織田信長
しかしこの時代、平和は全く訪れない。
室町幕府第十五代将軍・足利義昭の後ろ盾であった織田信長がめきめきと頭角を現し、ついには「天下をとる」という野望を持つまでになった。そのため信長は「殿中御掟」(1569年)という九箇条の掟書を将軍義昭に対して発布し認めさせるに至った。これに焦った足利義昭は本願寺顕如や武田信玄、上杉謙信、毛利元就などの戦国武将に信長討伐例を下した。これにより信長の勢力は一時弱まったが1573年に信長の宿敵武田信玄の突然の病医により信長は再び勢力を取り戻した。
信長に今日を追われ、西国に逃げ延びてきた足利義昭は、身の置き所を毛利に求めた。そののち義昭は毛利氏と備前の勇宇喜多氏を組ませて信長に対抗することを画策、これにより三村の宿敵、備前の宇喜多氏はあろう事か自分のバックである毛利と手を組むこととなってしまった。
そんな時、三村氏の元に天下統一を目指す織田信長から「毛利軍の上洛を阻止すれば、備中、備前の国2カ国を与える」という書簡が届く。長年毛利についてきた三村氏だったが積年の恨みを持つ備前宇喜多氏と和睦する事などあり得ない。三村氏にとってこの信長からの書簡はまさに渡りに船であった。「宇喜多氏を討つチャンスが巡ってきた」三村元親は毛利を裏切ることを決めた。
これにより三村元親は毛利陣営から織田陣営に走り、天正二年から三年にかけて備中全土を舞台に、織田VS毛利の代理戦争とも言うべき激戦が繰り広げられた(備中兵乱)。
開戦
天正2年(1574年)戦国武将が群雄割拠する下克上の戦国時代の暮れ、小早川隆景(毛利元就の三男・、「三本の矢の教訓」で有名な一人。関ヶ原で東軍勝利の決定的要因を作った秀秋の養父)を大将とする八方の毛利勢が備中松山城を取り囲んだ。高梁の野も山も寄せ手の人馬で埋め尽くされたという。松山城最大の悲劇・備中兵乱の幕開けである。
元親は毛利氏に反旗を翻し、毛利・宇喜多連合軍のまえに立ちはだかった
三村勢は約8千、毛利勢は8万、備中松山城は圧倒的な兵力に取り囲まれた。
血で血を洗う半年にわたる激戦で三村勢の出城はことごとく陥落。
最後に残った難攻不落と言われた松山城も、兵糧攻めと城内の内通者のため天正3年(1575年)遂に陥落した。
指揮を採っていた大将三村元親は、「もはやこれまで」と家臣たちを城より逃がし自らは自刃しようと決意するも家臣たちに説得され松山城脱出を決行する。伝説では松山城本丸の隅にある厠は実は地下道に続く抜け道となっており、元親はここを通って松連寺まで脱出したと伝えられている。しかし元親の抵抗もここまでだった。
毛利の兵らに囲まれた元親は「決して毛利を裏切ったのではない、今回の戦は宇喜多を恨んでのこと。」と毛利兵に伝えると、元親は城で自刃しなかったことを悔やみながら松連寺のまえで松連寺自刃したと言われる。
【松連寺】
元親の辞世の句は「人という 名をかる程や 末の露 消えてぞ帰る 本の雫に」という物だった。
元親には8歳になる勝法師丸という養子の息子がいた。勝法師丸もまた捕らえられ、高梁市から南に30kmほどの場所にある総社市の井山宝福寺(雪舟の涙のネズミの話で有名)へ送られた。勝法師丸は8歳ながら容姿端麗で賢かったといわれ、将来をおそれた毛利氏は勝法師丸を殺してしまったといわれる。
【井山宝福寺の三重棟】
井山宝福寺で発見された石碑に勝法師丸の辞世の句であろうと言われている物がある。
「夢の世に 幻の身の 生まれ来て 露に宿かる 宵の稲妻」
備中一円に勢力を持った三村氏は、わずか2代で滅ぼされた。
水谷(みずのや)氏の政治
水谷氏以前の松山藩
江戸時代になり幕藩体制が確立して最初に松山藩主となったのは池田長幸である。池田氏は外様大名で、一六一七(元和三)年鳥取から六万五千石で松山の地に移ってきた。家来とその家族を合わせて約三千人程度の家臣団を引き連れての転封であり、小堀氏の町づくりの基礎の上にたって、城下町の建設が活発に始められた。
また、消費都市としての松山城下への物資輸送をするため高瀬舟の管理運営に当たる問屋を松山と玉島に設けている。そして、高梁川の下流には三角洲が発達し新田開発の絶好の条件であったため、池田長幸も早くから目をつけ、一六二四(寛永元)年玉島長尾内新田十町歩を開いている。
|水谷氏の入封|
池田氏の改易によって松山藩領は天領となり福山藩主水野勝俊が在番することになった。一六四二(寛永一九)年には成羽より五万石で水谷勝隆が移って来た。水谷氏も外様大名で、三年前に常陸の下館(茨城県)より移封されたばかりであった。成羽では、成羽川の流路を北寄りに付け替え、鶴首山の麓に陣屋を造り陣屋町作りに着手したばかりであった。
勝隆の構想は山崎氏に受け継がれた。水谷勝隆は十歳の時、父の遺領を継ぎ、下館城主として三士二年間、松山城主として二十五年間政治にあたり、戦国大名から幕藩体制への転換期にかけて、戦国武将として、また為政者として大きな足跡を残し、備中の開発に全力を尽くした。また、その子勝宗も父勝隆をたすけて二十五年、父の没後藩主として二十五年合わせて五十年間もの間、松山藩の発展に尽くした。現存する松山城を修築したのも勝宗のときであり、城主の日常の館兼政庁としての御根小屋を臥牛山の南麓に完成させたのも勝宗である。水谷氏五十年間は藩政が特に充実発展した時期である。
新田開発
幕藩体制が確立してからは、支配地を拡大する方法は増封を除けば、新田開発が唯一の手段となっていた。先の池田氏に続いて水谷氏も藩営新田として積極的に開発九すすめた。すなわち、島と島を結んで堤防を築き、島を崩して海を埋めることによ〔て、新田開発をすすめていった。また、藩士及び領民の塩の確保を目的として塩田(造成も行われている。新田の開発は備北の各地でも行われ、溜池を造り、用水路を誕置し堤防を築くなどして、山や畑から水田への転換を図っている。
産業の発展
水谷氏は、瀬戸内沿岸地方の新田・塩田開発と並行して、備北地方で煙草・漆などの商品作物の栽培を助成した。また、備北における当時の産業の中心は鉄鉱業であり、砂鉄精錬の発達に努力したといわれている。
(我が国では明治になって洋式の鉄鉱石処理法が導入されるまでは、鉄鋼生産のすべては砂鉄による精錬法すなわちたたらによっていた。)物資の輸送のためや、農耕のためには多くの牛馬を必要としたので、牧畜を奨励し、領内で牛馬の飼育頭数が増加した。また、城下の繁栄と藩収入の増加を目的に、南町に牛馬市場を開設した。その後、牛馬市場は発展して、領内だけでなく遠く大阪方面とも交易をして栄えた。牛馬市場は」九八七(昭和六二)年に閉鎖されるまで続いた。
高瀬舟の発達
備中の南北交通の中心となっていたのは高梁川の高瀬舟による輸送であった。当時の松山藩領は道路は曲がりくねり、坂も多く川にぶつかると橋がないところがほとんどで、陸路による物資の輸送は大変不便なものであった。
高梁川の水運は、松山より下流は室町末期には開発されていたが、松山より新見までの上流は水谷勝隆の時代に開発された。この舟路の開発は、備中南北の交通史上画期的意義をもつものであった。高瀬舟の交通には、継舟制が採られ、松山藩主代々に引き継がれ幕末まで行われている。今日、河岸にある下倉・高倉・井倉の地名は当時の倉屋敷の置かれた名残である。
水谷氏の政治
水谷勝隆・勝宗二代には治政が大いにあがり、実高五万石であったが、一六九三(元禄六)年の私検地では内高八万六千石になっている。つまり、この二代約四十七年間は、近世大名としての藩政の基礎が完成し、領内の経済体制も確立した時期であり、勝宗の晩年には、財政的にも非常に豊かな時代であったといわれている。藩主勝隆は、民政にも心を配り、城下御前町に鎮座する御前神社境内の鐘に刻まれている銘からも心意気をうかがうことができる。『吾は松山城に移住の後、城下の武十や領民に十二の時間を知らせるため、鋳物師に割り当てて優れた鐘を鋳造させ御前神社に奉納した。
考えるに、時間がわかれば寺社は勤めを怠らないし、時間がわからなくなれば領民は家業に専念しないだろう。近くの場所の者が従えば、遠く離れている場所の者もこれに倣う。願うところは天地が平穏で領国が安全で災いがなく、安楽を与えることが将来億千年であることを。」また、城下の町民に農作物の豊作と商家の繁栄を祈願して踊らせたのが「松山踊り」の始まりとされている。この水谷氏時代に始まった踊りを「地踊り」と呼び、板倉氏時代にできたものを「仕組み踊り」といっている。現在も備中高梁駅前通りを中心に八月十四日から十六日の三日間松山踊りが盛んに踊られている。
水谷氏の改易
水谷氏は三代勝美に継がれ、勝美は父祖の後を継いで土木事業を大いに興し、辻巻の常井池や時久の切通しなどは、この時代につくられたものである。勝美は実子がなかったので一族の水谷勝阜の長男勝晴を養子としていたが、一六九三(元禄六)年十月死去した。しかし、勝晴も家督相続の許可を得る前の同年十一月死去したため、勝晴の弟勝時に家督相続を願い出たが許されず、除封となりここに水谷氏は断絶することになった。
このため松山城の城受取の使いとして、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が任ぜられ、翌一六九四(元禄七)年家老大石内蔵助良雄が収城に来た。一時は水谷家では家老以下養子相続を主張し、城を枕に討ち死にというような気配もあって、物々しい警戒がされていたが、大石内蔵助が城中に入り、松山藩城代家老鶴見内蔵助に種々利害得失を解くという「二人内蔵助」の劇的な会談を遂げて後、無事、城の明渡しを完了したと伝えられている。水谷氏の領地が取り上げられてから、幕府はただちに姫路藩主本多政武に領内検地を命じている。
これによって示された新高は、十一万石余りとなり、実高五万石に比べると実に二倍以上になっていたのである。この検地がいかに厳しいものであったかはいうまでもないことであろう。以後、松山藩の農民は苛酷な年貢をかせられることになり、困窮と疲労を子孫に伝えることになった。病没した勝晴の弟勝時は、高梁市内に三千石を賜り、布賀(備中町)に陣屋を設けた。その後、後月郡内に五百石加増され、陣屋も黒鳥(備中町)に移し、明治維新を迎えた。
備中松山藩の歴史年表
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