「岡田武彦」先生と「王陽明の名句とその解説」

平成16年11月、「高梁方谷を学ぶ会」に一通の文章が届けられました。

著者は世界的な陽明学の研究者として知られる岡田武彦先生、その文章のタイトルは「王陽明の名句とその解説」という物でした。このとき、方谷を学ぶ会のメンバーは驚き、そして感動しました。なぜなら、この一ヶ月前岡田先生は95歳の天寿を全うしお亡くなりになっていたからです。

それでは、この「王陽明の名句とその解説」という文章についての経過を、少々お伝えしたいと思います。「高梁方谷を学ぶ会」では平成16年6月に衆議院議員の小野晋也氏をコーディネーターに「第一回山田方谷シンポジュウム」を開催し、その中で小野さんは下の様に発言されました。

「シンポジウムの議論の中には出てこなかったが、私(小野=シンポコーディネーター小野氏)の個人アイデアとして、皆さんに御提案申し上げたいことである。

”陽明の道”または”陽明の丘”を目に見える具体的な運動のシンボルとして高梁市内に作ってみないか!

山田方谷先生がその思想の基礎とされた陽明学について、それを学び、更にその始祖である王陽明の人生等について思いを巡らせるという揚所が、今の日本には恐らく無いと思うので、この地に、それを建設してはどうかということである。

それも、立派な建物を作り運営しようとすれば、莫夫な建設費と後の運営費もかかるので自然の中に、石碑の形で設置し、余り大きな費用がかからない工夫をすることも、併せて提案したいと思う。

実はこのモデルが、愛媛県四国中央市の新宮という土地にある、美しい自然あふれる道に12人の人生を貫いた言葉を石碑の形で設置して、その道を「志の道」と呼んでいるのである。これなら時々、地域の方々の協力を頂いて、石碑回りの清掃をするだけで済む。

さしずめ、この高梁市だと、備中松山城があり、そこには観光客も多い、この臥牛山中の道に、王陽明が生まれてより亡くなるまでの人生とその折々の言葉を散りぱめた石碑を設置した道を作ってみてはどうだろうか。」
この提言は後日まとめられ、実際に陽明学の道を造るべく岡田先生に王陽明の名句を10句選定していただくよう山田方谷に学ぶ会メンバーがお願いに上がったところ、岡田先生は快く引き受けてくださいました。

しかし、その後岡田先生は体調を崩され、平成16年10月17日、95歳で永眠されました。偉大な陽明学の研究者の死を皆が悲しんでいたとき、岡田先生の事務所より連絡がありました、その内容とは「岡田先生は高梁市と山田方谷のために依頼されていた名句の選定をしておりますので、どうぞお受け取り下さい。」という物でした。

そして、その原稿を見た会のメンバーは目を疑いました。
王陽明の句10句が選定してある物だと思っていたそれには、びっしりとその句の解説文が添えられ、さらに王陽明の説明までもが誰にでもわかりやすく解説されていました。

事務所の方のお話では、岡田先生は「句だけではわかりにくい、高梁の人誰もがよく理解できるよう一つ一つに解説をつけよう」と、みずから文章を制作していただいたそうです、その際、すでに先生の病状は進行してほとんど目が見えなくなっておられたそうで、口頭筆記によって文章を完成されたとのことです。

岡田先生の遺稿となった文章です。是非ご覧下さい。

 

序、序章(王陽明の全体像)

はじめに

王陽明という人は、中国で明代の中頃すなわち十五世紀の終わりから十六世紀の始めにかけて活躍した偉大な儒者であります。陽明は、聖人といわれた孔子の説く儒教の道徳は誰でも生まれつき持っているところの我が心の良知にあるといって良知の学を説いて儒教に新しい境地を開き、これを大きく深く発展させました。これを世に陽明学といいます。つまり、陽明は陽明学の開祖となった儒者であります。

実は、陽明は偉大な儒者であっただけではなく、明の朝廷が顛覆(てんぷく)するのではないかと思われたような王族の叛乱を短期間の間に平定して、明の朝廷を安泰にするという大なる功績があります。ですから、陽明は文武両道を兼ね備えた偉大な儒者であったのです。こういう儒者は他にはおりません。陽明の学問思想をよく理解するには、そういう陽明の建てた軍事上の功績をも知っておかなければなりません。

日本において陽明学は江戸時代からようやく盛んになり、幕末となるにつれて栄えてまいりました。幕末の陽明学者の一人が山田方谷先生であります。方谷先生は陽明の良知の学を学び、それを身に付けて実践され、疲弊した藩政を立て直すために大きな貢献をされました。ですから、方谷先生の学問を知り、その教えとか実践されたことをよく理解するには、やはり陽明学とはどういうものであるかを知っておかなければ、その理解が深くなりません。

そこで、陽明学の真髄を表わしていて分かり易い陽明の名句十項目を挙げて、これを紹介し、それに誰でも分かるような解説を加えることにしました。

「儒者とは」

ところで、陽明は偉大な儒者でありますが、儒者とはどういう人かということを説明しておかなければ分かりにくいと思います。儒者とは、聖人といわれた孔子の説く儒教の道徳を遵奉(じゅんぽう)し、孔子孟子が学んだ昔の聖人や、またその後の賢人たちの書いたものを勉強する人をいうのであります。それでは、孔子の説く儒教とはどういうものであったのかといいますと、それは人間として守らなければならない道徳は血を分けた肉親に対する思いが根本で、その思いをもって道を説き、それでもって家族および社会の人々の守るべきものだといったのであります。

もちろん、道徳を説くのは必ずしも孔子だけではありません。それは、他の人々もみな道徳を説きます。しかしながら、肉親に対する自然の思いやりの情を根本として道徳を説いたところに儒教の特色があります。それを人倫道徳といいます。他の宗教家や思想家は人倫道徳をあまり説いておりません。人倫道徳を根本とする教えを説いたところに儒教の特色があるわけです。

孔子は釈迦、ソクラテス、キリストとともに聖人といわれた人であります。その教えが中国で政教の根本であるとされたのは、漢の時代からであります。それ以後、儒教は中国の伝統思想となってまいりました。そして、その教えは韓国や日本だけではなく、広く東南アジアに及び、後には欧米にまでも拡がっていきました。

「高級官僚の試験(漢・唐・宋の時代)」

漢の時代には高級官僚をもって政治ないしは教育を担当させましたが、その高級官僚を採用する試験を何年かに一回、都で行ないました。その試験に及第すると、その人は立身出世が保証されますので、天下の秀才たちは皆それを受験しました。ですから、その試験に及第することは非常に困難であるとともに、また偉大なる光栄でもありました。試験のやり方は色々ありましたが、その一つの重要なものに、孔子やあるいは孟子など、の教えたことだけでなく、孔子や孟子が学んだ古の聖人の書物およびそれらの注釈書まで一字も問違いなく暗諦していることを試験し、それによって合格か否かを決めたのであります。

唐の時代になりますと、その注釈書もよく理解できなくなったので、注釈書にまた注釈を施して、それを教科書にしました。そして、儒教の経典ばかりではなく、その注釈書はもとより、注釈書の注釈までも一々暗諦しているかどうかを試験して高級官僚を採用し、それを政治家にしました。もちろん、それだけではありませんが、それが主な高級官僚の採用の仕方でありました。そうなりますと、孔子が説く道徳の精神は忘れられてしまいます。つまり、そういう教えの書物を一々間違わず暗諦しているかどうかで合否を決め、たので、孔子の精神つまり儒教の精神が失われてしまいました。

そのため、次の宋の時代になりますと、そういう試験のやり方は誤っている、我々が儒教の経典を学ぶのは聖人のような人間になって積極的に世の人々のために働くことである、だから、その経典や注釈書および注釈書の注釈を一字も間違いなく暗諦することで高級官僚になるというのは聖人の道を誤るといって、儒教は聖人のような人間になって世のため人のために働くのが目的であるという考えを述べる儒者が出てきました。そこで、儒教の経典の中から問題を出し、それに対する論文を書かせるというようなことが行なわれるようになりました。しかし、そういう考えも、いつの間にか忘れられてしまいました。

「儒学の発展」

また、宋の時代になりますと、儒教も大きな発展をとげました。というのは、孔子の説く教えを広大深遠なものにしたわけであります。何故そうなったかといいますと、それは中国に入ってきた仏教の哲学の刺激を受けて儒教にはそれに優るとも劣らない広大深遠な真理があるといって儒教を発展させたのであります。もちろん、それは孔子たちが未だ口ではあらわに述べていないが、もともと儒教が内に持っていたものを明らかにしただけであるというようなものでありました。

このような考え方を集大成して宋代儒教の代表者となったのが南宋の初めに出た朱子という偉い儒者であります。朱子は、そういう儒教の道徳は人間の本性の中に生まれつきあるものであって、人が守らなければならない理法であるといいました。そして、その理法は人間だけにあるものではなくて、宇宙万物おのおのに備わっているものであるから、人間の細々しい道徳だけではなくて、宇宙万物の持っている理法をも一々窮めていかなければ聖人にはなれないといいました。

もちろん、それは人倫道徳の学問が中心でありますけれども、その上で宇宙万物の理法を求めようとしたのであります。朱子はまた、この理法は宇宙生成の根本にもなっているといいました。それを天理といいます。すなわち天の理法、天から与えられた理法であります。そして、それは人間が生まれつき持っているところのものであるといって、人間を小宇宙というようにまで考えつきました。そして、このような考えを集大成して儒教を一層発展させたのであります。朱子は朱子学の開祖でもあります。
「日本や韓国の状況」

日本では江戸幕府が朱子学を政治の根本精神として取り入れたこと、また江戸時代になってから朱子学が非常に盛んになったことは、皆さんもご存じでしょう。もちろん、江戸時代には陽明学も取り入れられ、日本でも段々と広がり発達するようになりました。どちらかというと日本人の心情は陽明学に近いところがありますので、日本人は朱子学よりも陽明学を好む風潮がありました。

それと同時に、日本では中国のような高級官僚になるための試験科目として朱子学を採用するようなことをいたしませんでした。ところが、韓国では試験科目として朱子学を採用し、それ以外の学問を斥けました。ですから韓国では陽明学は興りませんで、朱子学だけであります。ここが韓国と日本の違うところであります。それは、両民族の気風が違っているからでもあります。日本は、そういう試験制度を採らなかったことが、また幸いでありました。

「高級官僚の試験(元・明の時代)」

さらに中国では、元の時代から朱子学がまた試験科目に取り入れられ、明の時代になりますと一層それが厳しくなりました。つまり、朱子学による儒教の経典の解釈をよく覚えておかなければ高級官僚の試験に及第しないというので、明代になりますと塾や学校は皆そのための受験勉強を教えるようになりました。朱子も儒教は聖人になるための学問であるといっておりましたが、そういう朱子の精神を忘れてしまって、ただ朱子学を知識として理解することばかりが、求められました。そこで色々な弊害を生じたのであります。また、そういう弊害が起こる原因も、多少は朱子の考え方の中にないでもありません。

そこで、明代の中ごろに王陽明が出て、先ほど申しました良知の学を説いてその誤りを正し、そして知識一辺倒になる朱子学の弊害を指摘してそれを排斥し、良知の学を掲げ世の中が私利私欲に明け暮れているのを見て、これを救うことに大いに努力したのであります。

「陽明学の名言十項目を」

さて、ここに掲げた十項目は陽明学の真髄をよく表わしていると思われるもので、しかも誰にでも容易に理解されるものにいたしました。そして、それに分かり易い解説を加えましたが、陽明の説く学問を理解するにはやはり陽明の生涯を知らなければ不十分であります。陽明の生涯は大苦難に満ちたものでありました。そういう生涯の中で陽明は悟りを開き、最後に良知の学に到達したのでありますから、ここに掲げた陽明学の真髄を表わす十項目の名言もそういうことを知っておかないと十分に理解できません。それで、そういう点にも触れながら、この十項目の名言をどなたにも分かり易いように解説してみました。

 

一、読書して聖賢を学ばんのみ
前に申しましたように、中国では高級官僚の試験に合格すると立身出世が保証されることになりますので、天下の秀才は我も我もとそれに応募して試験を受けました。ですから非常に難しい試験であります。そして、そういう難しい試験に第一番の成績で合格したのが、実は王陽明の父親でありました。

小さいときの陽明は非常な腕白小僧であり、また餓鬼大将で戦争ごっこなどをして遊んでいましたが、あるとき人から勉強しなければいけないと言われたのに発奮して勉強を始めました。陽明は塾に入って勉強していたのですが、十二歳のとき塾の先生に「世の中で一番大事なことは何でしょうか」と尋ねますと、「お前は早く試験に受かる勉強をしてお父さんのように合格しなければならない」と先生が教えたのであります。ところが陽明は「そうじゃありません。儒教の勉強は聖人になるためにするものであります」といったので、塾の先生はビックリ仰天しました。世の中の学問するもの、つまり学者は皆朱子学を勉強し、その経典をよく暗諦して試験に合格することが学問の目的と思っている中で、陽明が聖人になるために勉強するといったので、先生がビックリ仰天するのは当然のことでありましょう。

これも前に申しましたように、宋代の初めには儒教の勉強は聖人になるためのものであるといった人がおりましたが、そういうものはいつの間にか忘れられてしまって、明代になると、朱子学一辺倒のいわゆる知識だけの学問が横行していました。しかも、明の朝廷では、朱子学以外、の立場で儒教の学説を解釈する人はときには処刑するほどになりましたから、皆が皆、朱子学を勉強したのであります。それは、聖人になるためではなくて、いわゆる高級官僚になって立身出世、することを目的とするものであり、ただ朱子学による経典の解釈を詳しく広くすることが学問の目標となってしまいました。いうならば現在の日本の受験勉強のようなものであります。日本のあちこちで受験勉強のための教育をしていますが、それと似たものといってよいでしょう。

そういう勉強は間違いであって、儒教の学問を学ぶのは聖人になるためのものであるということを子供のころの陽明がいったのは、まことに素晴らしいことであります。塾の先生がビックリ仰天するのも当然のことでしょう。やがて、後に、そういう学問を聖人の学、すなわち聖学といって、知識一辺倒の朱子学が横行する中で、その聖学を復興するため陽明は努力するようになりますが、どうしても朱子学者から色々な批判を受けました。それにもめげず陽明は、新しいいわゆる陽明学といわれる学説を唱えて、朱子学の弊害を救うことに努力しました。

朱子学は、ご存じのように日本では江戸幕府が政治教育の根本理念としたものであります。しかし、実は陽明学のほうが日本人の思想に合ったところがありますので、後になると陽明学はだんだん盛んになって日本人に好まれるようになりました。山田方谷先生は、この陽明学を学ばれて藩政の改革に大きな功績を残された偉い儒者であります。

さて、陽明は聖学に志しましたが、よく考えてみますと、朱子も究極は聖人になる学問を目指したのであります。ただ朱子の考え方は、物の道理を一々こうしなければならない、また何故そうなければならないかということをしっかりと知りつくした上で、それを実行し一それを積み重ねていくと、結局、聖人のような境地に達するというのであります。しかも、物の道理といっても、単なる人間の社会生活の問題だけではなくて、自然界の物についてもいったのであります。ですから、朱子の学問は、やや西洋の自然科学に通ずるところがあります。

しかし、朱子の考え方を実行するとなると、いつまで経っても悟ることなどできません。陽明も朱子学を勉強しているとき、一時、竹の道理を窮めようとして病気になりました。それで、聖人になるのをあきらめたといいましたが、また思い返して二度も挑戦しましたけれども、それでも分からない。そこで、とうとう朱子学の勉強を放棄してしまい、自分は聖人になることはできないといって隠遁(いんとん)しようとしました。

仏教や道教の人たちはよく隠遁を望みます。陽明も隠遁して世間の俗念を一切忘れてしまおうと思ったのでありましたが、早く母を亡くしたため自分を愛してくれた祖母、それから父親の二人に対する思いはどうしても忘れることはできませんでした。それで、こんなことをしていてはいけない、これは人間の道ではない、人問は自分の属するものに対する思いやりとともに、その心を世の中に広めて世の人々のために尽くすことが筋道である、これを説くのが儒教であるということを悟り、それからは儒教を信奉するようになりました。

そして、また友人と一緒にいわゆる聖人の本当の学問を世の人々に理解してもらおうと運動しました。しかし、陽明自身が人の上に立つ役人にならなければ、人々が認めてくれはしません。そこで、やむなく高級官僚になるための試験を受けて役人になりました。

 

 

二、志が立たねば、天下に成るべきのことなし
当時、明の朝廷にいたのは武宗という皇帝でありますが、その政治が良くないため、明のこの時代は全国に不穏な情勢が続いておりました。南方には乱賊が起こり、また王族の中には隙があれば武宗の帝位を奪ってやろうという野心を持つものが出てくる有様でした。そのように政治が悪くなったのは、幼い武宗を取り巻く八人の悪い側近がおり、そのため彼ら悪人たちは次第に政権をほしいままにして、国の政治を乱していったからであります。

このような状況を憂えた何人かの忠臣は、彼ら悪人たちを除かなければ政治は良くならないと考え、彼らの罪を述べてこれを排斥するよう武宗に上奏しました。ところが、それを知った彼らは忠臣を捕えて牢屋に入れました。当時三十五歳で軍事関係の役人をしていた陽明は義憤の情にかられ、忠臣を救済するよう武宗に上奏しました。そのため、陽明も彼らに捕えられて牢屋に入れられ、さらに囚人のように、中国の南西の果てにある貴州省の田舎の深い山中にある竜場というところの宿場の長として流されることになりました。そこに行く途中でも悪人が放った刺客の手で陽明は殺されかけましたが、それをうまく逃れ、一年くらいもかけて竜場に着いたのであります。

この竜場は蛮地の中の蛮地というような場所で毒虫や毒蛇がウヨウヨしている上、現地の人たちとは言葉も通じないような有様でした。住む家もありませんでしたので、陽明は従者たちと一緒にイバラを切り開き掘立小屋を作って住みました。そのうち陽明は、近くに鍾乳洞を見つけて移り住むことにしました。そして、食べ物を確保するのに土地の開墾までしなければなりませんでした。

しかし、そんな苦労よりもっと大きな心配事が起きたのです。といいますのは、陽明の父親が悪人の命令で職を辞めさせられたということを家からの便りで知った陽明は、悪人の魔手が自分の身辺に及ぶに違いないと考え、いやおうなく生と死の思いに心を動かされたのであります。そこで陽明は、そういう生と死の思いから解放されなければならない、もし聖人がこのような状況に陥った場合にはどのように対処したであろうかということを心に念じ、鍾乳洞の奥に作った石の囲いの中で昼夜を分かたず静坐し続けました。そして一夜、朱子のいうように万物の理法を心外の事物に求めてきたことは誤りであった、聖人の道はすべてわが心性の中に備わっている、つまり心即理である、と悟ったのであります。これを世に「竜場の大悟」といいます。

その一方、現地の人たちはだんだん陽明になついてきまして、陽明も開墾した土地からの収穫が余ったときには、それを近くの貧乏人に恵んだり、現地の人たちと宴会を開いたりしました。また、彼らは陽明が鍾乳洞の中に住むのは健康に悪いと心配したので、陽明は彼らの協力を得て木造家屋を新築して移り住みました。そのうち陽明を慕う学生が続々と集ってきて、新築の家屋を竜岡書院と名付け、陽明のもとで学問に励むようになりました。その多くは現地の人たちの子弟であったようですが、陽明は彼らが守らなければならない基本的な教訓を「竜場の諸生に示す教条」として与えたのであります。

この教条は学生たちの教育に関する陽明の基本方針を明らかにしたもので、立志(志を立てること)、勤学(学に勤めること、勉強すること)、改過(過ちを改めること)、責善(善を行なえと責めること)の四つを挙げ、それぞれについて具体的な内容で教えています。その中の「立志」の冒頭で陽明は、右に掲げているように「しっかりと志を立てるようにしなければ、天下のことは何一つとして成し遂げることができない」と教えたのであります。何に対して「志を立てる」のか、それは聖人になってやろうという志であります。そこで陽明は、続けて「しっかりと志を立てて聖人になろうと思えば聖人にもなれるし、賢人になろうと思えば賢人にもなれるのである。志がしっかりと立たなけれ、ば、舵のない舟や手綱のない馬があてもなく放浪するように、どのようなことをしでかすか分からなくなる」と説いたのであります。

 
三、知は行ないの始め、行ないは知の成れるなり
竜場の竜岡書院での陽明の高い評判はだんだん広まって、貴州省の長官や学政官の耳にまで届きました。そこで、彼らは省の都にあった書院を修復して陽明を院主に招き、子弟を引き連れて講義を聴くことにしました。そのときに講義した陽明の話がいわゆる知行合一説であります。そこで陽明がいったのは、右に掲げているように「知は行ないの始めであって、行ないとは別のものではない。また、知が成し遂げられたものが行ないであって、行ないは知から離れたものではない。両者は一つにつながっているもので、離すことはできない」ということであります。これが陽明学で有名な「知行合一」という教えでありますが、この考え方は、世の中で主流となっていた朱子学の考え方とは正反対で、世問の人に対して衝撃的な説でした。といいますのは、朱子学では「先知後行説」という考えを唱えていたからです。

つまり、実践する前に先ず事物の理法を窮めておかないと、その実践はでたらめな行ないになると朱子は考えたのです。先ず知った後で行なうという考え方は常識的で分かりやすいものでありました。そこで、ある日、偉い門人の一人が陽明に「誰でも親に孝行しなければならないと知ってはいますが、現実に孝を尽くすことは中々できません。そうしますと、知と行ないとが別のものであるの、は明らかではないでしょうか」と尋ねたことがあります。これに対して陽明は「そのように知と行ないとが二つに見えるのは、その人の考えが私欲におおわれているためであって、知行の本来の姿ではない。知っておれば必ず行なうものだ。知っていて行なわないのは、要するに知らないのだ」といい、「だから、昔の人は真の知行は美しい色を好み、嫌な臭いをにくむようなものだと説いたのだ。

つまり、嫌な臭いを嗅ぐのは知に属し、嫌な臭いをにくむのは行に属するが、嫌な臭いを嗅いだ時は既にそれをにくんでいるのであって、それを嗅いでから後に別の心を働かせて嫌な臭いをにくむのではない。例えば、鼻づまりの人は嫌な臭いを出すものが目の前にあっても大してにくみはしないが、それは嫌な臭いを知らないからだ」と教えたのであります。

また陽明は知行合一について、「今の学者は知行を二つに分けるから、一念が発動した場合、それが不善のものであっても、まだ行に至っていないからと止めない」ともいっています。つまり陽明は、不善の念や私欲を徹底的になくすようにと教えたのであります。

 

 

四、人は必ず事上にあって磨錬すべし
竜場に来た翌年、陽明は罪を許され、江西省内の一県知事として赴任することになりました。そして間もなく、武宗皇帝を取り巻く側近の悪者八人は死刑に処せられます。しかし、なお側近には他の悪者がおりまして、彼らが色々な画策をするため陽明は大変苦労させられるのですが、その状況はまた後でご説明します。

そして陽明は、赴任の途中も任地に着いてからでも多くの、門人たちに色々なことを教えたのですが、その中で静坐の重要性も説いております。

しかし門人の中には、いたずらに静のみを求めるものがおりました。例えば、ある門人が「何事もしないで心が静かなときには道を求めることはできるように思いますが、さて何かしていると心が動いて、心を磨き道を求めることができないようになります。これではいけないと思って、また退いて心を静かにして心を磨くようにしましたが、再び何か事に出会いますと心が動いて、うまく心を磨き道を求めることができなくなります。心には内と外の二つの心があるのでしょうか。いったい、どうしたらいいのでしょうか」というような質問をしました。

これに対して陽明は「心に内と外というような二つの心があるわけはない。心は一つだ。だから、むしろそういう場合には、事をなしているときに心を磨いて、そして道を求める修行をした方がよい。そういう努力をすれば、事がない静かなときにも自然に道が求められるようになるのだ」と答え、「事上磨錬」ということを説いたのであります。

このように陽明は、静かなときに道を求めるよりも、むしろ事をなしているときに道を求めることが大切であるという意味の教えを説いたわけでありますが、しかし決して陽明は静かなときの修行を否定したわけではありません。ただ、そういうときにだけ心を用いて他のときの修行を忘れたならば、静かなときに求めたと思ったものも、それは本物ではなかったということになってしまうのであります。

前にも申しましたように、かつて陽明は竜場で静坐して聖人の道を悟りました。しかし、陽明が悟るに至ったのは、それまで色々な苦難を経たからであります。そのように静坐して道を悟ったので、竜場から帰るとき門人たちに静坐して道を求めるようにといったところ、陽明のように色々な苦難を経ていない門人たちは、静坐して頭に何か想念のようなものが現われると、何か悟ったような気になってしまうものが多く出てきました。つまり、静坐の弊害を生じたわけであります。それで陽明は、これではいけないというので、それからは余り静坐のことを説かないようになりました。ですから、陽明は決して静坐を否定したわけではありません。むしろ、事上磨錬といったように、人間が活動する現実の中で道を求め心を磨くように努力せよと教えたのであります。これも、陽明の実践哲学の一つの表われであります。

こういうことは禅でも行なわれております。例えば、白隠和尚はそういうことをいいました。静かなところで坐禅して仏の道を求めるよりも、何か事があるとき、その中で仏の道を求めることが何層倍も難しいか分からない、そういうことをやってこそ本当の仏の道を悟ることができるのであると強調したのであります。そういう点は陽明も同じで、このように事上磨錬を説いたのであります。陽明学を修める人は、この事上磨錬という陽明の言葉をよく身に付けるよう努力してまいりました。

 
五、山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し

 

県知事の任務を報告するため都に帰って暫くしますと、陽明は南京の役所の役人として赴任させられます。陽明は早く郷里に帰って門人たちと勉学することを願っていたのですが、なかなか許されません。

やがて陽明は、江西省南方の乱賊の討伐を命ぜられます。といいますのは、そのころ江西省の南で広東省・福建省・湖広省との境界の辺りに多くの乱賊が出没していたからです。それでは何故、陽明がそういう役目を命ぜちれたのかといいますと、陽明は若いとき非常に熱心に兵法の勉強をしていまして、北方から侵入してくる異民族への対策を報告書にまとめて朝廷に進言したこともありました。そういうことを軍務大臣の王晋渓が知っていたのでしょう。王晋渓は、陽明でなければそういう不穏な形勢を取り除くことができないと考え、陽明に軍事の大権を与えて南方乱賊の平定を命じたのであります。

陽明は、江西省南方にある□州という大きな街に赴任して軍政府を開き、各地に幡居する乱賊を次々と打ち破っていきました。ただ陽明のやり方は、これまで官軍が取った平定のやり方とは大きく違っておりました。その第一点は、初めから軍隊を率いて乱賊を討伐するのではなく、まず彼らを説得して、それを聞かない場合に討伐するというやり方を取ったことです。次に第二点は、これまで官軍が山岳地帯に住む凶暴な蛮族の兵士を使っていて、その害悪は乱賊以上であったことから、陽明はその力を借りずに自ら精兵の軍隊を編成し、さらに良民の中に乱賊の者が入りこまないような組織を作った上で、各地にひそむ乱賊を平定していったのであります。

そして、そのような軍陣の中にあっても陽明は、門人に講義することを忘れませんでした。手紙でありますが、あるとき「明日は敵の根拠地に進攻する予定にしている。ところで、山中の賊を破ることは容易であるが、人間の心中に巣くう賊(私欲)を克服することは難しい。諸君が心中の賊を破って、心をすっきりさせたなら、それはまことに偉大なことである」ということを書き与えております。

こういうことは宋代の学者もいっていましたが、陽明と違うのはどこかといいますと、陽明は我が心の中にすべての道があるとしますから心の力というものを信じております。だから、その心があれば、私欲を見抜いてそれを除去する力が出てくる、そういうことができるというのであります。こういう点が、同じようなことをいっても、いささか異なってまいります。そういう心とはどういう心かと、いいますと、後に陽明はそれが良知だとはっきり述べるようになりますが、そのころは未だそこまでは行かなくても、人の心には私欲を見抜きそれを除去する力があるということを、それとなく信じておりました。私欲を見抜く力は、猫が鼠を捕まえようとするときの鋭い目でこれを見て、そして除去する力を持っているというのであります。その力で私欲を一掃しなければならないと陽明はいったのであります。いずれにしましても、この「山中の賊を破るは易く、心中の賊を破るは難し」という言葉は、陽明の数ある名言の中でも特に有名なものであります。

 
六、人生、命に達すれば自ら灑落(しゃらく)
江西省南方に巣くう乱賊をすべて討伐した功績によって陽明は昇進することになりましたが、陽明は昇進を辞退し帰郷講学させて欲しいと朝廷に願い出ました。しかし、これまた許されませんでした。といいますのは、揚子江を南京から西に遡上していきますと□陽湖という中国最大の湖があり、そこに流れこむロ江という大河を少し南に下ると江西省の南昌という大きな街があります。そこには昔から一大勢力を持つ王族がおりました。その当時は辰濠という名の王でしたが、これが朝廷の悪い側近を通して自分の息子を王位につけたい、つまり武宗皇帝の王位を纂奪しようという野心を持って虎視眈々と狙っていたのであります。そして、今度も軍務大臣の王晋渓は、震濠が事を起こした場合の対応を陽明, に任せようと考えていたのであります。

やがて陽明は、福建省の正規軍の叛乱を鎮定するよう命ぜられます。そのため□江を北上して南昌の近くまで来たところ、ついに震濠が叛乱を起こしたのを知って直ちに引き揚げ、南方の乱賊を平定する根拠地に、していたロ州まで帰ろうとしました。しかし、□州までは遠いので陽明は途中の吉安という街に留まり、そこから各地に撤を飛ばして義勇軍を募り軍備を整えるなど衰濠の叛乱への対応を指揮したのであります。

一方の農濠は叛乱を起こしたとき、やはり陽明が自分を襲ってくるのではないかと非常に心配していました。しかし、陽明にその気配が見えませんでしたので、いよいよ大軍を引き連れて南昌を出発しロ陽湖を経て揚子江を東に向かったのです。そして、先ず揚子江の下流にある副都の南京を攻略し、次いで首都の北京に攻め上って武宗皇帝の王位を纂奪しようと企てたわけであります。

陽明は辰濠が揚子江を東に下ったその隙を狙い、辰濠の拠点であった南昌の城を襲い、あっという問に占領してしまいました。それを聞いて驚いた震濠は南京に攻め上る途中から全軍を引き返し、陽明の軍と戦いました。主戦場はロ陽湖の上で水軍と水軍の戦いでありましたが、陽明は湖上の戦いの三日目に辰濠軍を撃滅し、震濠を檎にしたのであります。これは震濠が叛乱を起こしてから僅か四十二日目という極めて短期間のことでありました。そのころ北京では、震濠が叛乱を起こしたのを聞いた武宗皇帝の側近の悪い連中は皇帝を押し立てて震濠親征軍を興し、大軍で南方に向かいました。その悪い連中は、辰濠の乱を平定した陽明の功績を何とかして皇帝の征伐の功績に、すなわち自分たちの功績にしたいと画策したのでありぎす。そのため彼らは陽明に対し、辰濠以下の檎を再び□陽湖上に解き放て、そして解き放ったならば我々が捕える、そこで皇帝が展濠を征伐したようにさせろと無理無体なことを要求してきました。

しかし陽明は、もしそういうことをして展濠を解き放ったならば、震濠の残党一味が立ち上がって、どんな騒動が起こるかも分からないといって承諾しませんでした。そして陽明は、結厨、自分が震濠を連れて皇帝に差し出すしか方法がないと考え、揚子江を東に下って皇帝の駐屯地に赴き、辰濠以下の檎を良識ある側近の人に渡しました。その上、展濠を平定した功績は皇帝の親征軍にあるという報告書を書かざるを得なくなりました。

ところが、それでもなお、陽明に対する皇帝の悪い側近どもの妬み心は止みません。彼らは何かあると陽明の悪口を皇帝に言上し、あわよくば陽明を殺させようとさえしたということであります。さらに彼らは、陽明は皇帝に謀反を起こす心があるということを言い出しました。さすがに暗愚の皇帝もそこまでは信用せず、陽明に謀反を起こすという証拠があるのかと聞きましたところ、悪い側近どもは陛下が陽明を召喚されても決して出頭しないでありましょう、それが謀反の証拠でありますと答えたのであります。

しかし、このことを知った良識ある側近の人が実情を陽明に連絡しましたので、陽明は直ちに皇帝の駐屯地に向けて出発しました。これを知ってあわてたのは悪い側近どもであります。陽明が皇帝に面会すると自分たちの悪計が発覚するのを恐れた彼らは、偽命を発して陽明を途中で足止めさせました。そのため、仕方なく陽明は山の中に身を潜めて、毎日静坐しておりました。一方、皇帝は良、識ある側近の助言もあり部下を遣わして陽明の様子を探らせましたが、謀反の疑いなどまったくないことが分かりましたので、南昌に還るよう命じました。

南昌に還った陽明は、しばらく後でロ江を南に下り軍事拠点の□州に戻りました。ロ州で陽明は配下の軍隊を整備し大々的に閲兵を行ない、兵卒に戦法を教えるなどしました。そういうことをすると、陽明の動きを見張っている悪い側近どもに口実を与えることになると陽明の門人たちは非常に心配しました。しかし陽明は平気で、門人たちに「啾啾吟」という詩を与えて慰めたのであります。啾啾とは悲しく泣き声を出すという意味です。最初に書きました「人生、命に達すれば自ら灑落」というのはこの詩文の一節で、陽明は「人間は天命を自覚さえすれば酒々落々の自由な境地に達することができる」といったのであります。

 

七、良知は千古聖々の相伝なり
さて、聖人の説く道は人間が社会で従わなければならない道でありますが、宋代になりますと、それは天から与えられた理法、すなわち先天的な生まれつきの理法であり、人間の家族生活や社会生活のみならず、天地万物の一つずつにもその理法があると説かれるようになってまいりました。

ですから朱子は、そういう理法も一々窮めていかなければ聖人の境地には達し得ないといったのであります。もちろん朱子も、そういう道が人間本来の心にあることを知ってはおりました。しかし、そういう道を心の中に求めると、心で心を求めることになって迷路に入ってしまうか、ら、心の外の物について一々これを窮めていかなければならない、そして天地万物それぞれに道があるのだから、それを一々窮めていかなければならない、それは天然的な理法であるから、その理法は宇宙生成の根本の道でもあるといって、それを総合して天理といいました。

要するに朱子は、本来、天理は心の中にあるといいましたけれども、先ほど申しましたように、それを心の中に求めると心が混乱に陥るので、むしろ心の外にある物について先ず一々これを求めていかなければならないといい、人倫道徳だけではなく、人文科学や社会科学的な理法から自然科学的な理法までも一々求めねばならないというようになりました。このように朱子のいう天理は、まことに深遠広大なものであります。そもそも宋代になりますと、孔子や孟子の説く道が、こういうように天地万物の理法であって宇宙の根源であるとまで考えるようになり、ここにおいて儒教は大きく、発展したわけであります。何故こうなったかといいますと、それは仏教哲学などの刺激によって儒教の道が広大深遠であることを探り出したからであります。

陽明も一応は朱子学を修めてきておりますから、やはり心の中に天理があることを述べました。ただ、朱子と違うところは、心の本体が分かれば天理が分かるとしたことであります。それで、どういうふうに心の修行をしたらよいかという点に苦心したのです。そこへもってきて、先ほど申しましたような大苦難に出くわして、ついに良知の悟りを得るに至ったわけであります。

陽明が南昌に滞在しているとき門人たちが集ってきて色々と教えを乞いました。そして四十九歳のとき、この「良知説」を述べました。最初は一門人にひそかに述べただけでありましたが、翌年、五十歳になると門人たちに対して大一々的にこれを公言したわけであります。そして陽明は、私利私欲に明け暮れている世の人々を良知によって何とか救わなければならないと思い、それで自分は気狂いといわれてもいい、この良知説を掲げて世の中を救うのだと決意したのであります。

そして陽明は、良知がすなわち天理であること、その力がいかに偉大かということを述べ、さらに、この良知は自分が勝手にいっているものでなく、最初に記しましたように「大昔から聖人たちが代々伝えてきたものである」ということを述べたのであります。また陽明は、次のような色々の例を引いて良知の力を説明しております。

中国には、お墓など死んだ人骨が累々とある中で、どれが自分の祖先の骨であるかを捜すとき、子孫の者が骨に血を垂らせば中に滲み入るので即座に見分けることができる、という言い伝えが昔からあるのですが、陽明はそういう骨に垂らす血と同じように、良知は即座に是非善悪を見分ける力があるといっております。また、良知は羅針盤のようなもので、それさえあれば道に迷わず目的地に着ける、良知に従って行動すれば正しい行ないができるといい、また良知を船の舵に讐え、船に舵さえあれば逆巻く怒涛の中でも目的地に着くことができる、良知にはそう、いう力があると、このようにいったのであります。

陽明がこの良知を悟るようになるまでには色々な苦難があります。先ず竜場に流されたとき、聖人の説く道は我が心にあるということを悟りました。しかし、その心の本質はいったい何であるかということを知らなければなりません。それまで陽明は、心に対してどのように修行すればよいのかということを聖人の教えの中で色々求めてきましたが、その都度その都度、考え方が変わってはっきりとしませんでした。ところが、辰濠の乱で皇帝の側近にいる悪者たちにより今までにない大苦難に出会って、はじめて心の本質が良知である、これは聖人と一般の人とを問わず誰でも持っているものであるということを悟りました。そのことを悟ったのは、陽明がかつてない大苦難を経験したからであります。ちょうど竜場で陽明が苦難の中で静坐して聖人の道は心にあると悟ったのと同じように、大苦難を経てから、この心の本質が良知であり、それが聖人の説く道であると悟ったわけであります。

 

八、わが心に自ら光明の月あり
陽明は良知説を公言してから、ますます良知の素晴らしさを信ずるようになりました。そして、この良知こそは天地万物宇宙の根源である、この良知がなければ天地万物も宇宙も存在し得ないと考えるようになったのであります。そして、この素晴らしい良知は誰でも聖人と同じものを持っていると述べました。陽明が晩年の詩に「わが心に自ら光明の月あり」と吟じたのは、そのことを明らかに示すものであります。

人は誰でも永遠に光り輝いて変わらない名月のようなものを持っていると陽明はいったのでありますが.この名月とは良知を表わしたにほかありません。そして、この言葉は人々に強い自信を与えるものだと私は思うのであります。何故なら、人は誰でも聖人と同じ良知を持っているというのですから。一般に陽明学は人間に強い信念を与える学だといわれておりますが、まことにその通りであります。誰でも、自、分が聖人と同じ良知を持っているといわれたならば、自信がわいてくることはいうまでもないでしょう。

しかし、現実はそうではなく、やはりよく注意しませんと、この良知も私利私欲で曇らされてしまいきす。ですから、それを取り除いて良知を輝かすようにする努力が必要であります。その努力を忘れますと、私利私欲に曇った良知でありながら、これが本当の良知だと思って行動するような弊害を生じます。

そこで陽明は、門人の中にいささかそういう弊害を生じているのを見て、私利私欲を取り除いて良知の光の輝きを汚さないようにしなければならない、そういう努力が必要であるといって、良知というだけではなくて良知を致すということが大事だといったのであります。そこで陽明は「致良知」ということを述べたのです。日本で始めて陽明学を受け入れて学んだ人は、皆さんもご存じの近江聖人といわれた中江藤樹であります。この中江藤樹の揮毫に「致良知」と三字を書いたものがあります。当時、良知と書かないで致良知と書いているのです。このことからも、中江藤樹は陽明の心をよく知っていた陽明学者であるということができるでしょう。

しかし、そういう私利私欲が萌したならば、これを見るのも実は良知である、そしてそれを見抜いて除去するのが、ほかでもない良知の力である、良知はそういう力を持っている、陽明は後にこういっております。黙々と私利私欲を取り除く努力をするのではなくて、それはわが良知がいち早く見抜いて、これを取り除く力を持っている、ということを陽明は説いたのであります。ここにも、陽明学の特色、陽明の良知説の特色があるわけであります。

 
九、良知の内実は真誠側怛なり

 

良知は聖人も一般の人も等しく持っているものであると陽明はいいましたが、しかしながら、よく注意しないと、私欲に曇らされた良知でありながら、その判断にもとづいて行動し、自分は良知に従っているのだというものが後に出てくるようになりました。さらに、ずっと後になりますと、まったく文盲のものでも良知良知といいだして、そして自分の思うままに行動するのが良知に従うことだといって弊害を生ずるようになりました。陽明のときには未だそこまで行かなくても、やはり誤ってその良知を磨くことを忘れ、私欲に覆われた良知でものを判断し行動して、いわゆる主観に陥るものが出てくるようになりました。

そこで陽明は、良知は天理のあらわになったもので「その内実は真誠側怛、すなわち人の真心と人に対する思いやりである」と述べました。良知の中に本当の真心と思いやりがあるということを忘れて良知を説けば誤りを犯すに至ると陽明はいったのであります。この点は非常に大事なところであります。良知の中には、そういう心が、つまり情が入っていることを私たちは忘れてはなりません。ですから、陽明学すなわち陽明の良知説を学ぶものがそのことを忘れたなら、陽明の良知説に対する理解は誤ってしまいます。

山田方谷先生は、特に真心ということをもととして、誠をもつて良知を説かれたのであります。これは陽明の本当の良知説を述べられたにほかありません。そういう良知をもって藩政を立て直すために大きな働きをし、後世の人がこれを見上げるような大きな功績を建てられたのであります。日本では幕末のころ全体的に陽明学が盛んになりましたが、日本の陽明学者はそういう正当な陽明学を取り入れた人が多く、間違った取り入れ方をしてはおりません。

ところが、中国の場合、後になると陽明の学を間違って取り入れ、一何でも自分の思うままにやることが我が良知に従うことだといって堕落するような傾向が多くなりました。そして、これが明朝を乱すもとになりました。ですから、明朝が満州族に滅ぼされて清朝の時代になると、朱子学者の中に明朝を滅ぼしたのは、罪、陽明にあるというような批判が起こって、陽明学は退けられるようになりました。

中国ではそういう風潮が起こりましたが、幸い日本はそうならなかったのであります。ところが後世、陽明学は叛乱の哲学であるということをいう人がいるのであります。といいますのは、乱をー起こした大塩中斎は陽明学者であり、また最近では三島由紀夫の過激な行動もありまして、アメリカの若い学者の中に陽明学は叛乱の哲学だという人がおりました。三十年以上も前、私はハワイで行なわれた「王陽明生誕五百年記念国際学会」に参加しましたが、そのとき陽明学は叛乱の哲学だという誤解を発表する人がいました。そこで私は「島原でキリスト教徒が乱を起こしたが、彼らが乱を起こしたからといって、キリスト教が叛乱の宗教だとあなた方は思うか」と反論したことがあります。そういう誤解をする人が時々いるのは残念であります。

また、何でも我が良知に従って行動すれば正しいと、いう勝手放題な考え方を持ち、それが良知に従うことだといって、そういうように実践することが陽明学だという若者が日本でも時々おりますが、これは大間違いであります。それでは陽明学を正しく理解しておりません。しかし、一般に幕末の陽明学者は、山田方谷先生のように正しい理解の仕方をしております。さすがは日本人だと思います。

 

十、この心、光明、また何をか言わん

さて、「、この心、光明、また何をか言わん」という言葉は陽明が臨終に際して門人に述べた辞世の句であります。陽明は、辰濠の乱を平定し、しばらく後にようやく暇を貰って郷里に帰り、数多くの門人たちと学問に励んでおりました。それまで、いつも陽明は仕事を辞めさせて欲しいと朝廷に願い出てもなかなか許されませんでしたが、そのようなことを願ったのは、郷里で門人たちと学問をするのが陽明の目的であったからであります。

ところが、晩年になって、またもや陽明は中国西南方の広西省にいる賊の平定を命ぜられます。自分は病身であるからと断りましたが、どうしてもこれを断ることは許されません。陽明はもともと肺病体質でありましたが、その弱い身体を引っ提げ、はるばる賊の討伐に出かけました。門人たちと別れる前日、陽明は「善もなく悪もないのが心の本体、善があり悪があるのが意の発動、善を知り悪を知るのが良知、善をなし悪を去るのが格物」という四つの言葉の解釈を与えて出発しました。

広西省の賊は余り困難を伴わずに平定することができましたが、陽明が任務を終えて郷里に帰るときは、もう身体が衰弱し切っていて、舟に乗って帰る途中、とうとう江西省の南安というところで亡くなってしまいました。陽、明の臨終に際し、門人が私たちに教え残して下さるものはないのですかといったとき、陽明の述べた言葉が「この心、光明、また何をか言わん」というものでありました。

この我々のお互いの心の中には光り輝く良知があるではないか、それをたよりにすればいいので、他に何も言い残すことはないといって陽明は永遠の眠りについたのであります。朱子は臨終に際して「大いに学問に励みなさい」.と門人にいったそうでありますが、陽明は、このように良知に満ち足りた言葉を残したのであります。

かつて私は、同志とともに陽明が亡くなった南安の河畔に参り、鎮魂の儀式をして陽明の死を悼みました。そのとき私は、あの苦難に満ちた陽明の生涯を思い、思わずむせび泣きしたことを覚えております。