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備中松山藩 幕末前史
備中兵乱水谷氏の政治備中松山藩の歴史年表

水谷氏以前の松山藩

江戸時代になり幕藩体制が確立して最初に松山藩主となったのは池田長幸である。池田氏は外様大名で、一六一七(元和三)年鳥取から六万五千石で松山の地に移ってきた。家来とその家族を合わせて約三千人程度の家臣団を引き連れての転封であり、小堀氏の町づくりの基礎の上にたって、城下町の建設が活発に始められた。

また、消費都市としての松山城下への物資輸送をするため高瀬舟の管理運営に当たる問屋を松山と玉島に設けている。そして、高梁川の下流には三角洲が発達し新田開発の絶好の条件であったため、池田長幸も早くから目をつけ、一六二四(寛永元)年玉島長尾内新田十町歩を開いている。

|水谷氏の入封|
池田氏の改易によって松山藩領は天領となり福山藩主水野勝俊が在番することになった。一六四二(寛永一九)年には成羽より五万石で水谷勝隆が移って来た。水谷氏も外様大名で、三年前に常陸の下館(茨城県)より移封されたばかりであった。成羽では、成羽川の流路を北寄りに付け替え、鶴首山の麓に陣屋を造り陣屋町作りに着手したばかりであった。

勝隆の構想は山崎氏に受け継がれた。水谷勝隆は十歳の時、父の遺領を継ぎ、下館城主として三士二年間、松山城主として二十五年間政治にあたり、戦国大名から幕藩体制への転換期にかけて、戦国武将として、また為政者として大きな足跡を残し、備中の開発に全力を尽くした。また、その子勝宗も父勝隆をたすけて二十五年、父の没後藩主として二十五年合わせて五十年間もの間、松山藩の発展に尽くした。現存する松山城を修築したのも勝宗のときであり、城主の日常の館兼政庁としての御根小屋を臥牛山の南麓に完成させたのも勝宗である。水谷氏五十年間は藩政が特に充実発展した時期である。


新田開発

幕藩体制が確立してからは、支配地を拡大する方法は増封を除けば、新田開発が唯一の手段となっていた。先の池田氏に続いて水谷氏も藩営新田として積極的に開発九すすめた。すなわち、島と島を結んで堤防を築き、島を崩して海を埋めることによ〔て、新田開発をすすめていった。また、藩士及び領民の塩の確保を目的として塩田(造成も行われている。新田の開発は備北の各地でも行われ、溜池を造り、用水路を誕置し堤防を築くなどして、山や畑から水田への転換を図っている。


産業の発展

水谷氏は、瀬戸内沿岸地方の新田・塩田開発と並行して、備北地方で煙草・漆などの商品作物の栽培を助成した。また、備北における当時の産業の中心は鉄鉱業であり、砂鉄精錬の発達に努力したといわれている。

(我が国では明治になって洋式の鉄鉱石処理法が導入されるまでは、鉄鋼生産のすべては砂鉄による精錬法すなわちたたらによっていた。)物資の輸送のためや、農耕のためには多くの牛馬を必要としたので、牧畜を奨励し、領内で牛馬の飼育頭数が増加した。また、城下の繁栄と藩収入の増加を目的に、南町に牛馬市場を開設した。その後、牛馬市場は発展して、領内だけでなく遠く大阪方面とも交易をして栄えた。牛馬市場は」九八七(昭和六二)年に閉鎖されるまで続いた。


高瀬舟交通の発達

備中の南北交通の中心となっていたのは高梁川の高瀬舟による輸送であった。当時の松山藩領は道路は曲がりくねり、坂も多く川にぶつかると橋がないところがほとんどで、陸路による物資の輸送は大変不便なものであった。

高梁川の水運は、松山より下流は室町末期には開発されていたが、松山より新見までの上流は水谷勝隆の時代に開発された。この舟路の開発は、備中南北の交通史上画期的意義をもつものであった。高瀬舟の交通には、継舟制が採られ、松山藩主代々に引き継がれ幕末まで行われている。今日、河岸にある下倉・高倉・井倉の地名は当時の倉屋敷の置かれた名残である。


水谷氏の政治

水谷勝隆・勝宗二代には治政が大いにあがり、実高五万石であったが、一六九三(元禄六)年の私検地では内高八万六千石になっている。つまり、この二代約四十七年間は、近世大名としての藩政の基礎が完成し、領内の経済体制も確立した時期であり、勝宗の晩年には、財政的にも非常に豊かな時代であったといわれている。藩主勝隆は、民政にも心を配り、城下御前町に鎮座する御前神社境内の鐘に刻まれている銘からも心意気をうかがうことができる。『吾は松山城に移住の後、城下の武十や領民に十二の時間を知らせるため、鋳物師に割り当てて優れた鐘を鋳造させ御前神社に奉納した。

考えるに、時間がわかれば寺社は勤めを怠らないし、時間がわからなくなれば領民は家業に専念しないだろう。近くの場所の者が従えば、遠く離れている場所の者もこれに倣う。願うところは天地が平穏で領国が安全で災いがなく、安楽を与えることが将来億千年であることを。」また、城下の町民に農作物の豊作と商家の繁栄を祈願して踊らせたのが「松山踊り」の始まりとされている。この水谷氏時代に始まった踊りを「地踊り」と呼び、板倉氏時代にできたものを「仕組み踊り」といっている。現在も備中高梁駅前通りを中心に八月十四日から十六日の三日間松山踊りが盛んに踊られている。


水谷氏の改易

水谷氏は三代勝美に継がれ、勝美は父祖の後を継いで土木事業を大いに興し、辻巻の常井池や時久の切通しなどは、この時代につくられたものである。勝美は実子がなかったので一族の水谷勝阜の長男勝晴を養子としていたが、一六九三(元禄六)年十月死去した。しかし、勝晴も家督相続の許可を得る前の同年十一月死去したため、勝晴の弟勝時に家督相続を願い出たが許されず、除封となりここに水谷氏は断絶することになった。

このため松山城の城受取の使いとして、赤穂藩主浅野内匠頭長矩が任ぜられ、翌一六九四(元禄七)年家老大石内蔵助良雄が収城に来た。一時は水谷家では家老以下養子相続を主張し、城を枕に討ち死にというような気配もあって、物々しい警戒がされていたが、大石内蔵助が城中に入り、松山藩城代家老鶴見内蔵助に種々利害得失を解くという「二人内蔵助」の劇的な会談を遂げて後、無事、城の明渡しを完了したと伝えられている。水谷氏の領地が取り上げられてから、幕府はただちに姫路藩主本多政武に領内検地を命じている。

これによって示された新高は、十一万石余りとなり、実高五万石に比べると実に二倍以上になっていたのである。この検地がいかに厳しいものであったかはいうまでもないことであろう。以後、松山藩の農民は苛酷な年貢をかせられることになり、困窮と疲労を子孫に伝えることになった。病没した勝晴の弟勝時は、高梁市内に三千石を賜り、布賀(備中町)に陣屋を設けた。その後、後月郡内に五百石加増され、陣屋も黒鳥(備中町)に移し、明治維新を迎えた。




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