▲山田方谷マニアックストップページ
山田方谷と炎の陽明学TOP山田方谷からの密書佐藤一斎の塾の塾頭に 致良知と知行合一
藩政の大改革富国強兵大政奉還文の秘密新政府入閣を断る
【新政府入閣を.断る】

慶応四年(明治元年)、鳥羽伏見の戦いに端を発する戊辰戦争が始まり、敗れた徳川慶喜側は勝静らを従えて大坂から江戸に遁走(とんそう)した。備中松山藩は朝敵となった。備前岡山藩や近隣の大軍が押し寄せてくる。抗戦か恭順か。藩論は真っ二つに割れた。

戦えば、最新西洋銃で装備した備中松山藩の農兵は、史上最強の評価を歴史にとどめるに違いない。かつて方谷の教えを受けた河井継之助は越後長岡藩にコピーともいえる西洋式軍隊を導入し、現実に薩長を中心とした+倍もの官軍を六度も敗走させている。だが、朝敵となった備中松山藩に明日はない。国土は焦土と化すのは必定だ。

藩主不在の状況のなかで、みんなから最後の決断を迫られた方谷は、たぎる血の決戦の思いを断ち切って、無血開城を決断した。「生賛(いけにえ)が必要なら、わしの白髪頭をくれてやろう」方谷は最悪の場合でも、自分一人の死で藩と藩民を無傷のまま救いたかった。徳川慶喜が恭順とあきらめて江戸城を明け渡したにもかかわらず、元老中の勝静は榎本艦隊と函館に渡り、維新政府に対抗し続けた。

しかし、もはやこれまでの状況に追い詰められた勝静は、方谷らの策でプロシア船に乗船し、江戸に入って帰順した。板倉勝静と勝全父子は群馬県の安中藩に御預けの身となった。明治新政府が、朝敵側とみなされた山田方谷に、はやばやと入閣を願ったのは異例のことである。岩倉具視大久保利通木戸孝允らは、方谷の理財の才に注目したのだ。

だが、その誘いを方谷は、老齢と病、郷学に専念することを理由に断っている。求道者方谷は栄光の道よりも自らの最晩年を郷土の教育者として生ぎる道を選んだ。しかし、方谷に対する新政府の上京出仕の督促は激しい。方谷の心境を察して矢吹久次郎が動いた。

彼は方谷の母の里である小阪部(岡山県大佐町)に広大な屋敷と土地を求め、塾の施設として方谷に提供したのだ。かくして、老いたる炎の陽明学者方谷は備中松山藩を後にした。明治六年、方谷は岡山藩主池田光政が十七世紀に岡山県伊里村に開いた由緒ある閑谷(しずたに)学校の教壇に立つことになり、一春と秋にそれぞれ一か月、陽明学を講義した。いかに老いるか。これは最も今日的な重要テーマになっているが、方谷は一つの老いの生きざまを、老いの哲学を、静かに私たちに語りかけてくる。

ここに最も深い感銘をおぽえずにはいられない。方谷が没したのは明治十年。七十三年の生涯だった。枕元には王陽明全集と、勝静から賜った小刀、二年前に急死した矢吹久次郎の形見のピストパが安置されていた。方谷に見るリーダーシップいま方谷の事蹟を振り返れば、彼は幕末の激動期にあって、驚くべき無血革命を成し遂げた偉士だったと言えるだろう。方谷はまた、封建社会においていち早く資本主義を導入していることがその施策からわかる。さらに驚くべきことは、武士が支配する士農工商の身分制度も否定した。

藩民の八割を占める農民を保護し、ついに生産性を倍加させたことは特筆に値するが、内弟子となった河井継之助が驚いてしまうほど、何のけれんみもなく自分の高弟を次々に藩の要職に就けているのだ。高弟のほとんどが農商の出身だった。方谷にはリーダーとしてのカリスマ性があった。胆力と胆識には眼をみはるものがある。最終決断はわが心で決まる。頼れる羅針盤はわが心のみ。責任を他人に転嫁しない。だが、方谷が偉大なのはそれだけではない。

藩の総理大臣の重職にありながら、家禄は家老に準じ、藩政改革に乗りだすにあたって他の藩士の倍の減俸を自己に課し、清貧どころか困窮一歩手前の生活に苦しんだ。家計を公開したのも、なかなかできないことだ。上に立つ者は私利私欲を離れ、自らを律して生きていかなければならないことを、彼は身をもって教えてくれるのである。そして、世俗の風塵のなかで方谷が阿修羅のごとく死物狂いで守ろうとしたのが「誠」という清涼な心だった。

方谷が学び、実践した陽明学とは"光の哲学"であり、生きるための哲学なのだ。しかるに、中江藤樹に始まる日本の陽明学の系譜は熊沢蕃山佐藤一斎大塩平八郎、山田方谷、春日潜庵吉田松陰高杉晋作久坂玄瑞西郷隆盛、河井継之助、乃木大将:…・と脈々と続くものの、その多くが「死」の選択を余儀なくされている。日本には死を美とする武士道があった。

それを誤りとは、私は言わない。しかし、強固な軍隊を有しながら備中松山藩を無血開城し、たぎる決戦の思いを断ち切ってみんなが生き延びる選駅をした方谷こそ、その光の哲学の具現・者ではなかったか。死は決して潔くはないのである。山田方谷が藩主勝静に説いた帝王学は「事の外に立つ」ということだった。政治も経済も事の内に屈してはならない。目先の空腹を満たそうと利にあがいても所詮一時しのぎの付け焼き刃。事の外に立って義を明らかにし、抜本的な方針を整えてから、戦略を実行すべし、とする。利は義の後からついてくる。いつの世にも通用する陽明学の要諦である。



※:上記の文章は現吉備国際大学教授 矢吹邦彦先生が1997年5月に雑誌用に執筆・掲載されたものです。
当ホームページでは矢吹先生ご本人の許可を得た上で紹介・掲載させていただきました。
上記文章の無断転載はおやめください。




Click Here! Click Here!  

 Copyright(C)2001 備中高梁観光案内所