▲山田方谷マニアックストップページ
山田方谷と炎の陽明学TOP山田方谷からの密書佐藤一斎の塾の塾頭に 致良知と知行合一
藩政の大改革富国強兵大政奉還文の秘密新政府入閣を断る
【藩政の大改革】

松平定信の孫である板倉勝静(かつきよ)が、婿養子として備中松山藩にやってきたのは弘化元(一八四四)年だった。祖父に似て聡明な若君は、方谷から帝王学を学んだが、新藩主の座につくと方谷に藩の元締役と吟昧役を命じた。藩の大蔵大臣に、という命令である。嘉永二(一八四九)年、方谷が四十五歳のときだった。学頭を辞して隠居を申し出たいと思っていた方谷にすれば、まさに青天の露露(へきれさ)。いわば社内教育一筋の定年間近な教育部長が、新任の社長から財務を担当する専務取締役を命じられたようなものだろう。

いくら幕末とはいえ、農民あがりの一介の儒学者の大抜擢は、藩内に異常な衝撃を与えた。上級の武士たちは激怒し、方谷を暗殺するとの噂も駆け巡った。しかし、藩の財政改革をもくろむ勝静は意に介せず、安政元年(一八五四)には参政という、いまの総理大臣にあたる職に方谷を据えた。さすがにこの後、十四代、十五代将軍の幕閣における老中にのぽりつめた勝静だけのことはある。方谷が藩政にたずさわったのは大塩平八郎の乱の十二年後にあたる。藩の台所事情を調べて方谷は樗然とした。備中松山藩は大坂の蔵元を中心に十万両の借財を抱えていたのだ。しかも表高こそ五万石だが、実収入は二万石に満たない。

以前の元締役はそれを粉飾し、借金に借金を重ねていたわけだ。備中松山藩は粉飾決算により、破産状態にあったのを外部に隠していたのである。「飲んでやる、飲んでやろうではないか」十万両の借金を飲んでやる。方谷の口から、絞り出すような声が吐き出された。孤独な叫びだった。方谷はまず債権者が集中している大坂に出向いた。蔵元の商人を一同に集めて持参した帳簿を見せて粉飾決算を公表し、十万両の借金を一時棚上げしてくれるように頼み込んだ。そして、■再建策を彼らに示した。借金を棚上げしてもらった間に藩の財務体質を正常化させる。そのうえで改めて新規事業に投資する。そして新規事業で得た利潤で負債を返済していく・・・。

バブル景気の崩壊で悪戦苦闘する企業の再建のパターンそのままだが、当時としては前例のない画期的な方策だった。方谷は、「その間は新たな借金は頼まない」と固く商人たちに約束した。すでに矢吹久次郎を盟主とする中国地方庄屋ネットワークの新資金ルートが約束されていた。新規事業の投資は「鉄」である。豊富で良質の砂鉄に恵まれたこの地にタタラ吹きの鉄工場を次々につくり、鋤、鍬などの農具や鉄器を製造したのである。膨大な公共投資だった。

それらは自前の輸送船を仕立てて江戸で直売した。方谷は販売を司どる撫育局(ぶいくきょく)をつくり、領土のすべての産業を藩の専売事業にして、巨万の富を得た。同時に藩をあげての大倹約令を断行した。藩士に減俸、賄賂を禁止する。方谷の減俸率は他の藩士の倍として、自分の家の会計を他者に委任した。政治家として家計をガラス張りにした日本の先駆者だった。方谷はまた、飢瞳になれば真っ先に餓死していく農民に対して、徹底した保護策をとった。彼は新田開拓を奨励し、そこで取れた米には租税を徴収しなかった。そして、藩をあげての殖産興業によって財政が豊かになると、税を軽減したのである。これが農民の生産性意欲を刺激した。減税したにもかかわらず米の生産は倍加し、藩の米蔵は満杯となった。損して得とれ、とはこのことである。

数々の改革のなかでも最も驚かされるのが、藩札を集めて河原で燃やしてしまうという"火中一件"だろう。方谷はいつの間にか不換紙幣となって民衆の信用を失った藩札(紙幣)を正価で買い戻し、三年後に河原にそっくり積み上げ、民衆が見守るなかでことごとく燃やしてしまったのである。人々の驚き、どよめきのなかから、方谷への厚い信頼が生まれた。紙幣が軽やかに遅滞なく流通すれば、経済は黙っていても発展するのは資本主義の根本原理である。経済における「お金」は人体における血に等しい。血が動きを止めれば人体はたちまち腐臭をはなって死に到る。

よどませてはいけない。破産寸前の備中松山藩において、方谷がなぜあえて信用を失い動きを止めた藩札を必死に買い戻したか。弱りきった経済社会への緊急輸血のためだった。詳しいことは、次に執筆を予定している『山田方谷外伝』で構造的に語りたいと思う。方谷が安政四(一八五七)年、五十二歳で大蔵大臣の職を辞すまでの八年間に十万両の借金はなくなり、逆に十万両の蓄財ができた。改革は見事に成功したのだった。

イギリスの経済学者ケインズ(一八八三〜一九四六)は、公共工事の拡大や管理通貨制度の必要性を提唱した。公共事業と減税と金利低減を三種の神器とするケインズの不況対策理論。その革命的な理論は各国の経済政策に大きな影響を与えたが、方谷は彼に一歩先んじて、日本に"ケインズ革命"を起こしたのである。それも理論としてではなく、自らの実践を通して。だが、ケインズ政策は劇薬である。劇薬は妙薬ともなれば毒薬ともなる。投入するタイミングと量を誤れば取り返しのつかぬ薬害をもたらすことを知らなければならない。

「ケインズは死んだ」とよく言われる。しかし、資本主義が続く限り、ケインズは死なないだろう。私に言わせれば天下の薮医者がしばしばケインズを使いこなせなかった己の未熟をケインズの責任に転化しているにすぎない。



※:上記の文章は現吉備国際大学教授 矢吹邦彦先生が1997年5月に雑誌用に執筆・掲載されたものです。
当ホームページでは矢吹先生ご本人の許可を得た上で紹介・掲載させていただきました。
上記文章の無断転載はおやめください。



Click Here! Click Here!  

 Copyright(C)2001 備中高梁観光案内所