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山田方谷と炎の陽明学TOP山田方谷からの密書佐藤一斎の塾の塾頭に 致良知と知行合一
藩政の大改革富国強兵大政奉還文の秘密新政府入閣を断る

佐藤一斎の塾の塾頭に】

山田方谷は二世紀ほど遡(さかのぼ)る文化二(一八〇五)年、備中松山藩に農民の子として生まれた。三歳で漢字を覚え、四歳のときに大書した雄潭(ゆうこん)な額字が神社に奉納されている。
貧しくとも教育熱心な両親によって、五歳で隣国新見藩(新見市)の儒学者丸川松隠の塾に入り、朱子学や詩文を学んだ。丸川塾を訪ねた客人から「坊や、何のために学問をするの」と尋ねられた方谷少年が、「治国平天下」との志を述べて度肝をぬかせたのはまだ九歳のときである。「治国平天下」とは四書の一つである『大学』の重要な一節で、少年はすでに「四書」を暗唱していた。

儒学の精神を究めようとする方谷だったが、十四歳からの一年ほどの間に母と父と相次いで死別し、農業と家業であるささやかな製油業を継ぐ。方谷の率直な告臼によれば、家業の煩わしさ、俗物たちと明け暮れた「悔恨の」七年間を経験した。

藩主板倉勝職(かつつね)から二人扶持の"奨学金"を授けられ、藩の学問所への出入りを許されたのは二十一歳の暮れだった。やがて、京都の儒学者寺島白鹿のもとでの遊学から帰国した方谷を、藩主は八人扶持の士分に取り立てた。農民の子が名字帯刀を許される武士になれたのである。方谷は藩校有終館の会頭に命じられた。さしずめ教頭のような役割である。文政十二(一八二九)年、方谷二十四歳のときだった。三十歳になった方谷は、江戸に出て佐藤一斎の塾に入る。

佐藤は幕府の昌平欝(しょうへいこう)の塾長という学界の巨頭だが、表向きは官学の朱子学を標榜して.いたものの、実際に信じるところは陽明学で、陽明学者として"東の一斎、西の大塩"とも称された。大塩とは天保八(一八三七)年に乱を起こした大坂の与力大塩平八郎である。

一斎の私塾の門をたたいた方谷は、全国から集まった俊英のなかで瞬く間に頭角を現し、塾頭になった。一斎門下の二傑と呼ばれたのが陽明学の方谷であり、あと一人が朱子学を信奉する佐久間象山だった。象山がどうしても議論で勝てなかった相手が塾頭の方谷だったという。一斎の塾において二年間の学びを終えた方谷は、帰藩すると六十石を与えられ、有終館の学頭(校長)になった。



※:上記の文章は現吉備国際大学教授 矢吹邦彦先生が1997年5月に雑誌用に執筆・掲載されたものです。
当ホームページでは矢吹先生ご本人の許可を得た上で紹介・掲載させていただきました。
上記文章の無断転載はおやめください。



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