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文久三年(一八六三)八月、諸藩を脱藩した尊攘急進派の集団で、吉村寅太郎・藤本鉄石・松本奎堂(けいどう)らを中心とし、中山忠光を擁する草奔たちによる天誅組(天忠組)が大和で挙兵する。五条代官所を襲撃し、十津川郷士も加え大和高取城に向かったが八月一八日の京都の政変後間もなく追われる身となり、十津川、吉野の山中を一ヶ月余敗走の末、主だった者らは討死、刑死という悲劇的な結末を迎えることになった。

彼ら天誅組の記録はこれに加った中の指導的立場にあった一人で、国学者・歌人の伴林光平が奈良の奉行所で書いたもので(一般的には京の獄中で書かれたと言われている)、戦況戦跡を静かに振り返りながら遺した『南山踏雲録』に記されている。
天誅組の軍行記

文久3年 8月13日
この日攘夷祈願のため、大和親征の詔勅が発せられ孝明天皇の大和行幸が決まる。

8月14日
吉村虎太郎松本奎堂らが率いる倒幕の志士たちにより天誅組が結成された。

天皇が京都から近隣諸藩の兵を率いて率いて大和へ行幸となれば攘夷の風は日本中に吹き荒れる、天誅組はその魁となるべく決起、吉村虎太郎は天誅組総裁に就任した。

8月15日
一行は大阪土佐堀の阪田屋にて休憩、ここで松本奎堂が軍令書を執筆、夕刻には再び舟に乗り天保山沖へ、奎堂は舟中にて先ほど執筆した軍令書を読み上げた。一行は泉州港に到着、近くの旅館で分宿をとる。

8月16日
朝、いよいよ高野街道を河内へ向け出発。倒幕の魁となった「天誅組」の進行が始まった。

8月17日
「皇軍御先鋒」「中山侍従罷り通る」の2本の大きなのぼりを掲げ再び進行開始、10名が一行に加わる。途中、楠木正成公首塚に参拝、整列する一行の前で中山忠光公卿が祈願文を読み上げた。ここでさらに備前藩士藤本鉄石と家来の元力士福浦元吉の2名が合流し天誅組は勢いを増してゆく。

午後5時、吉野天領7万石を直轄する五條代官所を襲撃、代官鈴木源内ら5名を討ち取り近くの桜井寺を「天誅組本陣」とし、五條御政府の樹立を宣言、管轄の村を天領から天朝の直轄とし年貢半減の布告を行った。

8月18日
薩摩藩は京都守護職の会津藩と共謀し尊皇攘夷派の長州勢を御所から追い出し更に攘夷派の公家7人を追放するという出来事が起こった。
これにより孝明天皇の大和行幸は中止が決定された。世に言う八一八政変(七卿落ち)である。

8月19日
昼、天誅組一行に孝明天皇の大和行幸中止が伝わる。
なんと天誅組の義兵たちは挙兵からわずか一日にして賊軍という立場に逆転してしまった。
さらに尊皇攘夷派の福岡藩士 平野国臣が天誅組の進行中止を説得に来るもすでに代官所襲撃後であったためすでに時遅し、仕方なく国臣は説得を断念し再び京にもどらざるをえなかった。

虎太郎は「いかなる情勢となろうとも一死をもって報国の覚悟は出来ている」と義士全員の奮起を促した。

8月20日
天誅組は五條桜井寺本陣を退き十津川方面へ移陣。

8月21日
要害堅固なる天辻峠のもっとも高い場所にあった鶴屋治兵衛の屋敷を本陣とする。俗に言う「天ノ川辻本陣」である。一行は武器を調達し火薬も入手木製の大砲も制作、決戦は近い。

8月22日
神官である橋本若狭が中山忠光と面会、忠光は皇威伸張、国土安穏の祈祷を若狭に依頼する。

8月23日
高野山、天誅組に忠誠を誓う。
虎太郎は十津川郷の郷士らに募兵を行った。

8月24日
十津川郷の郷士 1000人近くが応募の様子

8月25日
十津川郷から天ノ川辻本陣へ千名を超える義兵が駆けつけ、夕刻までには竹槍などを持ち五條に到着、和歌山藩、郡山藩、高取藩の軍勢が押し寄せるとの風評があり、天誅組一行は夜の行動をとったが実際には御所を含め幕軍の姿はなかった。ここで次の攻撃目標として以前天誅組への献米の約束をやぶった高取藩をターゲットとした。

8月26日
早朝、忠光率いる天誅組は城下町土佐町の西方鳥ヶ峰にて高取藩兵と戦闘開始、しかし天誅組の農兵らは疲れの限界となれない戦闘、手製の武器、一方の高取藩は大砲や小銃を装備、力の差は歴然としており天誅組は退却を余儀なくされた。
一方虎太郎率いる別働隊は御所方面を探索していたが、五條に変え途中敗兵の姿を見て天誅組の敗戦を知る、急遽24名の夜襲隊を組織し高取城野焼き打ちを試みるが途中高取藩兵に見つかり戦闘となる、このとき虎太郎は運悪く味方の撃った銃弾で負傷してしまう。

8月27日
高取城攻略に失敗した一行は天ノ川辻本陣へ引き上げる。
負傷した吉村虎太郎は重阪より五條へと戻る。

8月28日
負傷した虎太郎はやっとのこと天ノ川辻本陣へ帰陣するが忠光の天誅組本体はすでにこの本陣を離れ長殿村の長泉寺へ本陣を移すよう行動していた。
ここより十津川山中に立てこもり、機を見て一時紀州へ退却、その後四国か九州にて体制を整え再び挙兵するという策が忠光の頭にはあった。。

8月29日
忠光ら天誅組本体は虎太郎に長殿村への引き上げを要請、しかし虎太郎は天ノ川辻本陣の重要性を主張、断固として動かず、さらに橋本若狭らとともに本陣周辺の防備を固まる策にでた。

8月30日
忠光ら天誅組本体は長殿村をでて風屋村の福寿院へ移陣する。

9月1日
和歌山藩兵が恋野村に着陣したという情報を得た虎太郎ら一派はこの陣を襲撃、数カ所に火を放つ、しかしすでに近隣には彦根藩兵も着陣していた。

9月2日
忠光らの天誅組本体は幕府軍の包囲にあい更に南下して行く。
この日、朝廷より幕府軍に対し、天誅組を賊軍と見なし追討命令が下された。

9月3日
忠光らは紀州新宮方面への脱出を試みるが、虎太郎がいまだ天ノ川辻本陣で幕府軍に対して気勢を上げていることを知り計画を変更、天ノ川辻本陣に引き返すことに。

9月4日
忠光ら天誅組本体は武蔵村を出て天ノ川辻本陣へ。

9月5日
虎太郎は五条桜井寺を本陣としていた津藩藤藤新七郎に大和義挙の大儀を説くべく軍使を使わすが面会すら出来ず逆に捕まってしまう。

9月6日
忠光ら天誅組本体が天ノ川辻本陣へやっとのこと帰陣。
しかしこのときすでに和歌山藩兵による天誅組包囲網は固まりつつあった。
虎太郎らは再び十津川で義兵をつのる。
夜には数名の義兵が集まったかのようであったが、実はすでに幕府軍のさしがね出会ったことが判明、天誅組により多くの民家を焼き討ちする「冨貴の焼討」事件が起こった。

9月7日
大日川において津藩兵と天誅組の戦が始まる。このときは引き分けとなる。

9月8日
彦根藩兵が栃原獄へ、郡山藩兵が広橋峠に迫り天誅組包囲網はじわりじわりと狭まって行く。

9月9日
彦根勢が天誅組本体のいる白銀獄に迫るという情報を得た義軍は本体の応援に向かうが彦根勢を発見することが出来ず、今度は津藩勢が大日川方面に現れたという情報から橋本若狭ら30数名が襲撃を目的に民家45カ所に火をつけた。
(天誅の大火)

9月10日
この日、天誅組を追う各藩は一斉攻撃を予定していた。しかし前日の天誅の大火により予定を延期、また忠光ら天誅組本体もこの日は沈黙している。

9月11日
天誅組本体、再び天ノ川辻本陣へ
この日、水郡善之祐を頭とする河内勢13名(原田亀太郎を含む)が天誅組を離脱するという事態が起こる。忠光率いる天誅組本体のたび重なる迷走に失望しての行動だった。

9月12日
追討軍が迫っているとの情報を受け忠光らは再び天ノ川辻本陣与より小代村に移動。

9月13日
忠光ら本体は小代村をでて上野地村へ移動、東雲寺を本陣とする。

9月14日
追討軍が再び天ノ川辻本陣を攻撃、吉村虎太郎らが応戦するが戦力の違いは明らかであり耐えきれず陣を放棄、本体を追い十津川郷へ退く。
そのころ十津川郷では村集会が開かれ「天誅組への決別」が話し合われていた。

9月15日
忠光は本陣である東雲寺に天誅組全員を集めて言った。

「我に伴わんと思はん者は伴へ 去らんと思は者は去れ
道あらば長州九州へも土州四国へも赴きてむ
道なくば姦賊等を手もとに引き寄せて心の限り打切り、
刺し殺して、さて剣に伏して死なん心ぞ、縁ありて長州にて
再び相見んことも測がたし。御酒一つくめや」

決別宣言である。

9月16日
天ノ川辻本陣より虎太郎ら義士が引き上げてきた。
そして十津川郷士の離反を知る。
郷民より十津川からの退去要求があり、伴林光平らが代表となり
十津川からの退去を了承、天誅組は本陣を更に南下することを決める。
天誅組本体を離脱した原田亀太郎ら河内勢は十津川郷西方の上湯川村で宿泊。

9月17日
天誅組は風屋村を出発し小原村へ
河内勢は上湯川村を出発、新宮方面へ向かうが途中、追討軍の攻撃を受け山中へ身を隠す。

9月18日
小原村を出て下葛川へ

9月19日
忠光ら本体は玉置山より紀州本宮方面へでると見せかけ、急転大峰山中笠捨山へ移動

9月20日
大峰山から北山郷の浦向村に到着
更に退路を模索するがすでに和歌山藩兵に包囲されており脱出の道はなかった。

9月21日
浦向村から白川村へ

9月22日
天誅組の体力は極限状態にきていた。
天誅組本体を離脱した河内勢も各地で攻撃を受けこの日までに生き延びていたのは原田亀太郎を含む八名となっていた。彼らは「これまで」と全員自刃しようとするが善之祐の「幕府の刑場にて死し、以て天下、後世の人に大義名分のために一身を犠牲にして、このことを知らしめる」との言葉に賛同、自首することとし、小又川村の和歌山藩に出頭、同村の百姓、喜助の米倉(のちにいう天誅倉)に幽閉された。

9月23日
早朝、忠光らが出発しようとしたがそれまで荷物を運んでいた人夫が逃亡しており武器や荷物が移動できない、仕方なくそれらを焼き払い軽装となって出陣。

9月24日
いよいよ追討軍の追っ手が近づいてくる、忠光、虎太郎らは己の最期感じていた。そして最後の軍議が開かれる、内容は決死隊を組み幕府軍の各本陣に切り込み、混乱の内に忠光ら本体と負傷者を脱出させ再起をうかがうという物であった。
そして第一陣が彦根本陣へ突入、暴れ回り、力尽きて全滅した。
一方天誅倉に幽閉されている河内勢は和歌山に送られ牢獄に、その後京都の六角の獄に送られる。

9月25日
天誅組総裁、松本奎堂が和歌山藩兵の銃弾を受け絶命、藤本鉄石は伊勢街道にあった和歌山藩本陣に斬り込み大激戦の末絶命、この日、多くの義士が戦死した。

9月26日
和歌山藩兵が撤収

9月27日
天誅組総裁、吉村虎太郎が津藩兵に見つかり銃殺される。




元治元年(1864年)2月16日
伴林光平ら19名、京都六角の獄で斬首

7月20日
水郡善之祐、原田亀太郎ら14名 処刑される

11月8日
中山忠光 長州にて暗殺




天誅組軍行記は守田正明氏著の維新残影を参考にさせていただきました。
もっとくわしく知りたい方は是非買って読んでみて下さい。
また、多くの写真の提供や文の転載に快く許可をいただいた守田正明氏に心より感謝いたします。


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