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松山藩財政、待ったなし方谷、大阪へ方谷改革の痛みとは経済のV字回復
松山藩、貨幣刷新方谷の軍政改革山田方谷と抵抗勢力
【山田方谷と抵抗勢力】

山田方谷は中井町西方という田舎の百姓の出身だった。
その当時の日本は封建制度のまっただ中、武士は己が侮辱されたら相手を切って自分も腹をかっさばくといったメンツを非常に重んじる時代だった。

そんな中、備中松山藩主・板倉勝静の鶴の一声によって方谷は現在で言う大蔵大臣である元締役を拝命された。
当然おもしろくないのが備中松山門閥の上級武士達である、その反発はすさまじく、やがて方谷暗殺という噂となり藩内を駆け回った。

また改革をある程度成し遂げ、家臣達に一応の信頼を得た後にも、いざこざは色々とあった。藩主板倉勝静には「幕府の要職に付きたい」という夢があった、安政4年、そんな勝静に千載一遇のチャンスが訪れる、勝静は幕府要職の登竜門と言える役職の奏者番に任命された。通常この奏者番の中から数名が寺社奉行を兼務し、さらに寺社奉行を兼務した大名の中から幕府老中が任命された。

しかし当時寺社奉行になるためには「お手入れ」といわれる賄賂が必要で、その額も公然とながれていた。悩んだ勝静は松山にいる方谷に相談の手紙を送った。そして返ってきた答えは・・

「お手入れの使ってまでの寺社奉行就任はやめていただきたい。藩はこれまで賄賂を厳しく禁止して、違反する物は厳罰に処してきました。殿が賄賂を使って幕閣の出世をはかることは、すなわち藩政改革の厳法を自らが犯すこととなる、お手入れなしで寺社奉行の地位に就けぬと言うのなら、それもまた仕方がないことです」

という内容のものだった、「殿の幕府における千載一遇のチャンスをつぶそうとしている」、という勝静同情論は方谷批判を盛り上げ、またしても方谷暗殺の噂が闊歩した。


  

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